伊達村年
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伊達 村年(だて むらとし、宝永2年1月16日(1705年2月9日[1])- 享保20年5月28日(1735年7月18日[1]))は、伊予宇和島藩の第4代藩主。
生涯
第3代藩主伊達宗贇の3男[2][1]。母は中里氏(側室で宇和島藩士の娘)[1]。正室は仙台藩主で従兄弟にあたる伊達吉村の娘・富子[1]。側室に松川氏ほか。子は伊達村候(長男)、島内徳風(次男)、青木一貫(三男)、娘(柳沢信鴻正室)。官位は従四位下、遠江守。幼名は伊勢松。伊織。初名は宗貞(むねさだ)、貞清(さだきよ)。のちに義父の伊達吉村より偏諱を賜って村年に改名した。
兄の宗相が早世したため、宝永7年(1710年)4月2日に世子に指名され、翌年の父の死去により跡を継いだ。
藩政においては享保13年(1728年)から享保16年(1731年)にかけて風水害、享保17年(1732年)に虫害などが起こって藩内は凶作・大飢饉が続き、藩財政は窮乏化した。このため、倹約令と有能な人材登用を主とした藩政改革を断行しようとしたが、享保20年(1735年)5月28日、村年は参勤交代で帰国途上の播磨国加古川にて31歳の若さで急死し、成果が挙がらずに終わった。跡を長男・村候が継いだ。法号は泰雲院殿宗山紹沢大居士。