五色沼 (仙台市)
五色沼(ごしきぬま)は、仙台市都心部の西端にある青葉山公園内にある池。仙台城をめぐる堀の一部で、仙台城三の丸([[[:テンプレート:座標URL]]38_15_21.7_N_140_51_25_E_region:JP&title=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%9F%8E%E4%B8%89%E3%81%AE%E4%B8%B8%EF%BC%88%E7%8F%BE%E3%83%BB%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8%EF%BC%89 地図])の北面から大手門隅櫓([[[:テンプレート:座標URL]]38_15_25.6_N_140_51_20.3_E_region:JP&title=%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%9F%8E%E5%A4%A7%E6%89%8B%E9%96%80%E9%9A%85%E6%AB%93 地図])の前にかけて広がる。
日本のフィギュアスケート発祥の地とされる(後述)。 テンプレート:座標一覧
概要
青葉山に本丸を置く山城の仙台城は、山麓の広瀬川の河岸段丘に二の丸(現・東北大学川内キャンパス)と三の丸(現・仙台市博物館)がある。この三の丸を造営する際、広瀬川の後背湿地に堀を割り、掘った土で土塁を築いて三の丸を囲んだ。後に、三の丸の北面の堀は「五色沼」([[[:テンプレート:座標URL]]38_15_25.6_N_140_51_24.8_E_region:JP&title=%E4%BA%94%E8%89%B2%E6%B2%BC 地図])、東面のそれは「長沼」([[[:テンプレート:座標URL]]38_15_21.5_N_140_51_29.4_E_region:JP&title=%E9%95%B7%E6%B2%BC 地図])と呼ばれるようになった。
大手門を挟んで北側にある二の丸をめぐる堀もあったが、そちらは陸軍の駐屯地になったときなくなった。三の丸の二つの堀だけが現在も残る。
現在の五色沼は、池の南に三の丸の土塁が接している。木々が生え、秋になると紅葉する。
フィギュアスケート
五色沼が造られた江戸時代は小氷期にあたり、少なくとも戦前までは現在よりも気温が低かったため、冬期に五色沼は凍結していた(参照)。そのため、五色沼は仙台市のスケートの中心地として賑わった。現在は、厳冬期に一部に薄氷が張るものの、人がのるには不充分であり、スケートをすることは出来ない。
歴史
- 1890年(明治23年)頃、仙台在住の外国人がスケートを始めた。
- 1897年(明治30年)頃、米国人デブィソンが子供達にフィギュアスケートを教えた。
- 1909年(明治42年)頃、(旧制)第二高等学校([[[:テンプレート:座標URL]]38_15_10.9_N_140_52_23.6_E_region:JP&title=%EF%BC%88%E6%97%A7%E5%88%B6%EF%BC%89%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E5%BD%93%E6%99%82%E3%81%AE%E6%89%80%E5%9C%A8%E5%9C%B0 地図])の生徒が、ドイツ語教師ウィルヘルにフィギュアスケートの基本を習った。
とある。このような経緯から、五色沼は「日本フィギュアスケート発祥の地」とされる[1][2][3]。これを記念して五色沼のほとりに「日本フィギュアスケート発祥の地」の碑があり、男女ペアスケーターのブロンズ像(作品名『無限への軌跡』、作者翁ひろみ[4])がある[5]。
テンプレート:External media ウィルヘルにフィギュアスケートを習った二高生の田代三郎・佐藤幸三・河久保子朗らは、彼らの後輩を含めて各地で普及に努め、日本スケート界の功労者といわれた[6][7]。
大会実績
- 1931年(昭和6年)、第2回全日本フィギュアスケート選手権(シニア、ジュニアの部)
脚注
関連項目
外部リンク
- 五色沼でのフィギュアスケートの様子(写真、動画)
- 青葉山公園(仙台市 杜の都緑の名所100選)