万イク

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テンプレート:Ambox-mini 万 彧(ばん いく、? - 272年)は、中国三国時代の政治家。に仕えた。『三国志』呉志「三嗣主伝」と、その他各伝に分散して記述がある。

生涯

はじめ、呉郡の鳥程県令であった。このとき孫皓と仲良くなったという。孫休(景帝)の死後、皇太后の朱夫人や張布濮陽興が孫休の遺言に従い、その遺児を擁立しようとしたが、左典軍であった万彧は幼少であることを理由として強硬に反対し、丁奉の賛成を取り付け、孫皓の即位を実現させた(濮陽興伝)。孫皓即位後、王蕃・郭逴・楼玄と共に常侍となった。成り上がり者であったため、清廉なことで知られていた王蕃から軽蔑されているのではと、疑っていたという(王蕃伝)。

濮陽興と張布らを孫皓に讒言し失脚させた。(「濮陽興伝」)。その後、右丞相となり、267年に巴丘の守備を任されるなど、孫皓から重用された。宮中の責任者として適任な人物像について孫皓に助言し、楼玄を任用させている(「楼玄伝」)。成り上がり者であったため多くの人に軽侮されており、陸凱から孫皓の政治を痛烈に批判する上疏をされた時、その中で身分の卑しい小人と断じられている。270年には建業に戻っている。

272年、孫皓から譴責されたため、これにショックを受けて憤死した。『江表伝』では、271年に孫皓が一族を引き連れ、突然華里に赴いたことを家臣が慌てて連れ戻した事件が起きた時、丁奉や留平とともに孫皓を見限るような発言をした。それを聞いた孫皓は万彧達を憎むようになり、後日、留平と共に毒酒を飲ませ殺害しようとした。万彧は、毒盛りの下手人が毒の量を減らしていたため死ななかったものの、この処遇にショックを受けて自殺してしまった、と伝えている。子や弟は広陵に強制移住となった。

小説『三国志演義』では、孫皓に諫言したが聞き入れられず、逆に怒りを買い殺された臣下の一人として、名が挙がるのみである。

テンプレート:呉 (三国)の丞相