ヤルカンド・ハン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(ヤルカンド汗国から転送)
テンプレート:出典の明記 ヤルカンド・ハン国(英語:Khanate of Yarkand, 中国語:葉尓羌汗国)は、16世紀から17世紀にかけて天山山脈南部のタリム盆地一帯を支配したテンプレート:要出典範囲である。今日の新疆ウイグル自治区一帯にあたる。都城はヤルカンド(中国名:莎車、現名:葉城)にあり、カシュガルやトルファンまで領域とした。
モグーリスタン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)の王族であるトルファンの支配者アフマド・アラクの子スルタン・サイードが1514年にカシュガルでハン位に就き(このためカシュガル・ハン国と呼ばれることもある)、ヤルカンドに定都した。
その勢力は次第に拡大し、タリム盆地一帯の主要なオアシス都市だけでなく、最盛期には天山以北のバルハシ湖南岸やパミール高原以西のフェルガナ盆地にまで及んだ。
しかし、統治集団内部の権力闘争やイスラム教の黒山派と白山派の教派対立によって衰え、1680年にジュンガルに滅ぼされた。その後もヤルカンド・ハンを名乗る者はいたが、名目に過ぎなかった。
歴代君主
- サイード(1514年 - 1537/38年)
- アブドゥッラシード(1537/38年 - 1559/60年)
- アブドゥル・カリーム(1559/60年 - 1591年)
- ムハンマド(1591/92年 - 1609/10年)
- シュジャーウッディーン・アフマド(1609/10年 - 1618/19年)
- クライシュ(1618/19年?)
- アパク(アブドゥッラティーフ)(1618/19年? - 1630/31年?)
- プラド(アフマド)(1630/31年? - 1632/33年)
- ムハンマド・フダーバンダ(1632/33年 - 1635/36年)
- プラド(アフマド)(復位)(1635/36年 - 1638/39年)
- アブドゥッラー(1638/39年 - 1667/68年)
- ヨルバルス(1667/68年 - 1669/70年)
- アブドゥッラティーフ(1669/70年)
- イスマーイール(1670年 - 1680年)
→ジュンガルによって滅亡
滅亡後のヤルカンド・ハン
- アブドゥッラシード(1680年 - 1682年)
- ムハンマド・エミン(?年 - 1692年)
- ?
- ?
- アクバシュ(? - ?)
清朝の「駐京之回部一等台吉、定世襲ニ等台吉」
- ハシム(哈什木) 清朝、1759-60 ヤルカンドを征服したのにともない1760年に「入覲」(「都」に上り「皇帝」の拝謁を賜ること)し、「一等台吉」の爵位を授かり、北京に駐する[1]。1765年、死去。
- アブル(阿布勒) ハシムの長氏。1765年、「二等台吉」爵を継承。1788年、「二等台吉」の爵位が降格なく子孫に受け継がれる「世襲罔替」となる[2]。
参考資料
包桂芹『清代蒙古官吏伝』民族出版社,1995,ISBN 7-105-02273-6