モーシェ・ダヤン
モーシェ・ダヤン(モーシュ・ダイアン, משה דיין, Moshe Dayan, 1915年5月20日 - 1981年10月16日)は、イスラエルの軍人および政治家。 ヘブライ語の彼の名前 משה דיין は「裁判官(ダヤン)・モーゼ」という意味になる。「片目のダヤン」と称される。
プロフィール
生い立ち
モーシェ・ダヤンは当時オスマン朝の領土であったパレスチナのキブツで生まれた。父親はシュムエル・ダヤン、母親はデボラ・ダヤンであり、ダヤンは新設されたコミュニティで生まれた最初の子供であった。14歳で初期段階のハガナーに参加した。
第二次世界大戦前の軍曹であった時期に、パレスチナを植民地下に置いたイギリスのシオニズム支持の将校オード・ウィンゲートから軍事教練を受け、彼の多大な影響を受けた。ダヤンは陸軍士官学校を卒業しブルガリアへ行った。
第二次世界大戦
10年後に、ハガナーが非合法化されたときにイギリス当局に逮捕されたが、2年後に釈放され、1939年9月から始まった第二次世界大戦中に刷新されたハガナーとイギリス軍との連携に貢献した。
ダヤンは連合国軍の一員としてオーストラリア第7歩兵師団に加わり、シリアでヴィシー政権下のフランス軍と交戦し、そのときに左目を負傷し後のトレードマークとなった眼帯を着用するようになる。
それ以降、「イスラエルの鷹」、「独眼の将軍」、「隻眼の将軍」の異名をとった。ダヤンはオーストラリア軍将校の推薦によって大英帝国で最も高位の殊勲章を受章した。
軍司令官として
1948年5月15日のイスラエル建国を受け勃発した第一次中東戦争で、ダヤンはヨルダン渓谷の防衛を指揮し多くの重要拠点を防御し、イスラエルの勝利に大きく貢献した。また続く第二次中東戦争でも指揮を執った。
政治家として
第二次中東戦争後の1959年にイスラエル労働党から国会議員になり、農業大臣に就任した。
1967年、第三次中東戦争の直前に国防相に任命され、1973年の第四次中東戦争でも再び国防相として戦争指導にあたるも、作戦の準備不足などの不手際を批判され、1974年5月に辞任。その後労働党を離れて、メナヘム・ベギン政権の外相を務めたが、意見対立により1979年に辞任した。
晩年
閣外に去ったダヤンは、新党「国家刷新運動」を結成。1981年のクネセト総選挙で国家刷新運動は2議席を獲得したが、前年から健康を損ない総選挙直後に心臓発作で死去した。