ムハンマド・シャー (ムガル皇帝)
ムハンマド・シャー(Muhammad Shah, 1702年7月29日 - 1748年4月26日)は、北インド、ムガル帝国の第12代君主(在位:1719年 - 1748年)。父は第7代皇帝バハードゥル・シャー1世の皇子ジャハーン・シャー。ムハンマド・シャー・ランギーラー(Muhammad Shah Rangeela)の名でも知られる。
生涯
宮廷の混乱
1719年ムハンマド・シャーも前の兄弟に続き、サイイド兄弟の信任を得て即位した[1]。しかしその治世は、まさに前途多難の日々であった。
サイイド家の信任で皇帝の位を手にしたが、宮廷内外の混乱に頭を悩ませられ、従兄弟ファッルフシヤル以来ムガル宮廷は、皇帝がサイイド兄弟の信任を得て即位してはそのサイイド家によって廃位・暗殺され、同じ西暦1719年のうちに4人の皇帝が次々と交代する、いわゆる「傀儡皇帝」という古代ローマの軍人皇帝時代の如き混乱状態に陥っていた[2]。
だが、1722年ムハンマド・シャーはデカン総督ミール・カマルッディーン・ハーンなどトルコ系貴族の助力でサイイド家の討伐に成功し、帝国に一応の安定を取り戻したものの、その後彼は堕落してしまった[3]。
諸地方の独立
1724年、宰相ミール・カマルッディーン・ハーンは衰退するムガル帝国を見限り、デカンにニザーム王国をたて、同年にアワド太守サアーダト・アリー・ハーンはアワドで独立した[3]。次いで、ベンガル太守ムルシド・クリー・ハーンもベンガルの所領で半独立の立場をとるようになり、1727年その死後継いだシュジャー・ウッディーン・ムハンマド・ハーンは帝国に納税を拒否して独立した[3]。
このように、有力諸侯が皇帝を見捨てて地方に独立するようになり、ムガル帝国は急速に解体していき、帝国の実質的な領土は北インドのデリーとその周辺地域に限られるようになった。
むろん、帝国の諸州が独立したことにより、帝国の税収が著しく低下したのは言うまでもない。
一応、これらの政権は18世紀後半までは帝国の認可で世襲を行ったが、次第に許可なく世襲を行うようになった。また、隣国アワドの太守は帝国の政治・軍事にたびたび関与してくるようになった。
マラーター同盟の強盛
ムハンマド・シャーが即位した翌1720年、デカンのマラーター同盟では宰相バーラージー・ヴィシュヴァナートが死に、息子のバージー・ラーオ1世が後を継いだ。
この人物は非常に優れた指導者で、即位するとニザーム、アワド、ラージプート諸王国を抑え、同盟の勢力を急速に拡大した。そして、1737年バージー・ラーオ1世が率いる軍勢が帝都デリーを攻撃した[3]。デリーは陥落はまぬがれたが、マラーターは近辺を略奪した。
この出来事はアウラングゼーブの死後、ちょうど30年後のことであり、マラーターの台頭と帝国の衰退をよくあらわしていた。
デリーの占領・略奪
隣接のイランからも大敵が迫りつつあった。かつて第2代皇帝フマーユーンを匿ったサファヴィー朝は完全に衰退しており、混乱に乗じて軍人出身のナーディル・シャーが1736年にアフシャール朝を創始し、サファヴィー朝のアッバース3世は廃位された。
1739年、ナーディル・シャーは帝都デリーに侵攻し、30,000人もの住民が殺され、略奪が行われた[4]。ペルシア軍は「孔雀の玉座」(Peacock Throne)を含む非常に多くの宝物を盗み、デリーは廃墟と化した。
1748年アフガニスタンのドゥッラーニー朝が帝国領に侵入して、帝国はアワド太守サフダル・ジャングの助力を借りなければ撃退することができなかった[5]。
侵攻のさなか、ムハンマド・シャーは失意のうちに死亡し、帝位は子のアフマド・シャーが継いだ[1]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 Delhi 11
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p251-252
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p253
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p253-254
- ↑ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p254
参考文献
- フランシス・ロビンソン著、小名康之監修、月森左知訳、『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206-1925)』、創元社、2009年、ISBN 978-4-422-21520-4