ホンダ・MVX250F

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テンプレート:Infobox オートバイのスペック表 MVX250F (エムブイエックスにひゃくごじゅうエフ)とは、1983年本田技研工業が開発・販売したオートバイである。

解説

ヤマハRZ250という歴史的名車や、その打倒を目指したVT250Fという人気車種の影響で、1980年代の250ccスポーツ車というジャンルは非常に活気のあるジャンルであった。加えてHY戦争という状況下にあって、ホンダがさらなる攻勢に転じるために、当時のロードレーサー「NS500」が世界グランプリを圧勝した勢いそのままに、2ストロークエンジンを搭載した250ccスポーツ車として送り出された車種がMVX250Fである[1]。 1983年当時、東京モーターショーは隔年開催になっており、それが行われない年には秋の海外のモーターショーで発表されるのが通例であった。しかし、ケルンで行われたモーターショーでもアナウンスはなく、唐突に1983年の新車発表で公表され、当時4ストロークのイメージの強かったホンダから送り出された2ストローク車ということも相まって驚きとともにデビューした。2スト3気筒というエンジンレイアウトは、古くはカワサキマッハスズキGTシリーズといった車種で例があったが、V型は初めての型式であり、そのエンジンレイアウトは関心を集めた[1]

MVX250Fは、先に世に送り出したVT250Fで採用した理論上一次振動がゼロとなる90度V型2気筒に対し、ロードレースで活躍中だったNS500と同じV型3気筒(ただしNS500は112度V型3気筒で前1:後2)という変則的なレイアウトを採用したオートバイである。重量増と機械的ロスに繋がるバランサーの採用を避け、代わりに前バンクの2気筒と、後バンクの1気筒のピストン周りの重量をほぼ等しくすることで振動を対処している。具体的には後方気筒のピストンピン径を前2気筒の12mmから18mmに大径化し、前方2気筒との慣性重量バランスを取っている(厳密には完全ではない)。そのため後方気筒のコンロッドは大端部と小端部の見分けがつかないような形状をしている(ちなみにこの構造は1968年式のスズキ50ccGPレーサー、RP68と全く同じである)。しかし、後バンクのシリンダーに負荷が掛かり過ぎたためか、途中からカラーを介してピストンピンを18→14mmに小径化している。なお、製造番号5,000番台以降は製造段階よりシリンダーにメッキが施されているという俗説があるが、そのような事実はない。

発売当初、販売店がオイルポンプを絞っていたということで、オイル吐出量不足などを原因とし、初期ロットで焼き付きが頻発。また、2番チャンバーの取り回しが悪く、近くに配置されていたバッテリーが溶解し電装トラブルを起こし、これを焼きつきと誤解するなどして、MVX250Fは焼きつきを起こしやすいといった認識を助長する一因ともなった[2]

デザイン面でもVT250FやVF400Fと似ていて個性が少なく、発売直後にRZ250Rが43馬力、スズキから本格的なレーサーレプリカの元祖であるRG250Γが45馬力、なおかつ市販車初のアルミフレームといった触れ込みで発表され、販売価格もそれらのライバルと大差なかったため、発売早々に商品性で大きく見劣りするようになり、売り上げは低迷した。しかし、最高出力では劣るものの、乾燥重量の軽さと、VT250Fで好評であった16インチフロントホイールやプロリンクサス、インボードフロントブレーキなど足回しの性能は高く、加速性能はゼロヨン加速はそれらのライバル車種と同等であった[2]

上述の焼き付き問題の他にも1984年からホンダのワークスレーサーがV3エンジンを搭載するNS500からV4エンジンを搭載するNSR500となったために、ワークスレーサーのイメージを取り入れたモデルとして適さなくなってしまったという点も大きい[2]。 当時は急激な開発競争の過渡期であり、カタログスペックの数字が売り上げに大きく響く時代であった。急遽、焼き付き対策が実施されたがイメージダウンの回復には及ばず、わずか1年で後継モデル「NS250R」にバトンタッチすることとなる。一説には発売2か月で生産終了が決定されて在庫販売となったといわれ、そのためもともと生産台数が少なかった白/青カラーのモデルは市場に少なかったという[注釈 1]

比較的多めの排気煙、サイレンサーからのオイル吹きとそれによる目詰まりから来る排気音上昇、V型3気筒という構造による独特な排気音などにより、ホンダの2ストロークは良くない[注釈 2]という風潮ができてしまったが、動力性能的にはMVX250Fは第一線級であった。後続のNS250Rでは他社の競合モデルと互角の評価を得た。

関連車種との関係

登場前年に発売されていた4ストロークモデルであるVT250Fから、ビキニカウルやフロントフェンダーなど、多くの部品が共有設計されている[3]。タンクやシート、サイドカバーなどは専用設計品が使われているものの、外観から伺えるだけでもビキニカウル、ヘッドライト、ハンドルスイッチ、テールランプ、フロントフェンダーなどが型番こそ違うものの、VT250Fと同一のデザインであり、フロント16インチ、リア18インチのブーメランコムスターホイールも同サイズのものが採用されていた[3]。この影響か、点火系が当時の2stにしては珍しいフルトランジスター点火であった。これら部品の共有化により新規開発車でありながら標準小売価格は428,000円(83年発売当時)と、VT250Fより3万円高い程度に抑えられていた[3]

兄弟車

試作車の発表まで行われた、MVX250Fの上位車種である「MVX400F」は、250の販売不振を受けてお蔵入りとなった。小売店へのセールスガイドの配布が行われ、一部のパーツが補修用名目で購入可能であったなど、製造開始直前であったと推察される。NS400RはエンジンレイアウトがMVX250Fと同じだが、新たに設計されたエンジンを載せて販売された。MVXと異なりNS400Rのエンジンは、ラバーマウント方式を採用している[2]

その他

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  • 当初メーカー側で焼き付きを気にし過ぎたためか、対策として2ストロークオイルの吐出量を過剰なまでに多く設定されていた。MVX250Fのナンバーは焼け残ったオイルで真っ黒になるのは当然のこと、オーナーが着ているジャンパーにさえオイル染みや臭いがこびりついたほどである。後ろを走るクルマが排気に乗って飛んでくるオイル飛沫に耐えきれず、ウォッシャー液でフロントガラスの汚れを拭き取ったという逸話もある。
  • 社外品のアクセサリーで「ダミーマフラー」というものがあった。本来3気筒で3本マフラーのところを4本に見せる上に、サイレンサー部分が小物入れになっているという商品であった。当然そこだけは煙を吐かない。
  • 排気煙の多さに対する苦情に応えるかたちで、サイレンサー末尾に装着して排気煙の拡散を抑制するキャップが無償配布された。その外観から通称「笛」と呼ばれる。単に排気口を絞るだけの構造のため、固定がしっかりしていないと排気圧で脱落する事が多かった。


脚注

注釈

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出典

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参考文献

外部リンク

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テンプレート:ホンダのオートバイの車種
  1. 1.0 1.1 思い出の国産車たち Part.2 Honda MVX250F、PP. 94-96
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 思い出の国産車たち Part.2 Honda MVX250F、PP. 98-99
  3. 3.0 3.1 3.2 思い出の国産車たち Part.2 Honda MVX250F、PP. 96-97


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