ブルーノ・バウアー
ヘーゲル学徒
バウアーは、ザクセンで陶磁器の彩色職人の長男として生まれた。彼は、聖職者として身を立てるように嘱望され、ベルリン大学へ進学。当時、ドイツ中でブームを巻き起こしていた大哲学者ヘーゲルの講義を聞く。弱冠20歳にしてカントの美学論に関する論文を執筆。ヘーゲルに絶賛される。ヘーゲルが1831年に死去したが、1834年には学位取得と同時に、神学部で講師として教壇に立つ。この頃は、「忠実なヘーゲル学徒(つまり老ヘーゲル派)」として、ヘーゲル哲学について講じたり、マールハイネッケらとともにヘーゲルの宗教哲学の編纂に従事したりしていた。
ヘーゲル左派
1839年にはボン大学へ移籍。私講師として講義したほか、1842年には「共観福音史家とヨハネの福音史批判」を発表。この頃からヘーゲル右派から決別、ヘーゲル左派へと立場を変える。この書の内容は、同じヘーゲル左派ダーウィト・シュトラウス「イエスの生涯」(1835年)の福音書を「神話」であるとする立場をさらに進め、キリスト教の福音書の内容を共観福音史家(つまりマタイ・マルコ・ルカ)による自己意識(あるいはヘーゲルでいう「主体的精神」)による「創作」であるとした。つまり、バウアーはシュトラウスの立場より、キリスト教をさらに人間主体の産物であると主張したといえる。この超越的な神の否定と、人間主義的な立場による著作が原因でバウアーは大学を追われる。
「無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判のラッパ」(1842年)と「あばかれたキリスト教」(1843年)においてさらに無神論的な立場を表明。さらに、ベルリンのヘーゲル左派らで構成されたグループ「フライエン」の代表的な人物となり、フォイエルバッハやシュティルナーなどと当時の国家・政治・宗教について語り合った。
保守的文化哲学者
シュティルナーはヘーゲルのいう絶対精神を自我の所有するものと捉え、唯一者としての自我の哲学を展開した。それに対してバウアーは、ヘーゲルのいう絶対精神は「普遍的自己意識」であるとして、その獲得を主張したが、キリスト教がその障害になると捉え、国家と宗教の分離を主張した。時代は反体制運動が声高に叫ばれ、1848年に三月革命が起きたとき、バウアーは、この普遍的自己意識の実体化にこだわり、中途半端な普遍的自己意識のままで反体制運動に参加している人間を「大衆」と呼び、これを痛烈に批判した。このころには、ヘーゲル左派は事実上消滅し、バウアーは政治的・歴史的著作活動を活発にする。ヘルマン・ヴァーグナーの「国家・社会辞典」の編纂に協力、「ロシアとゲルマン」(1853年)、「ロシアとイギリス」(1854年)などを執筆。晩年には、「ビスマルク時代に関する手引き」などを著し、ヨーロッパ世界の崩壊という認識を示していた。このような後期のバウアーは、ヘーゲル左派的な初期のバウアーに対して、保守的な文化哲学者だとも解し得るかもしれない。
近代ドイツ思想の水脈
バウアーは、初期マルクスの思想的先行者であると同時に、ヘーゲル左派ではもっとも近い立場にあり、後に孤独死したシュティルナーの遺骸を引き取り埋葬しており、また、世間から無視された孤独な頃のニーチェへの数少ない注目者でもあった。つまり、マルクス、シュティルナー、ニーチェという近代ドイツの思想の交差の深源の消息を示している。
関連項目
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