フロリダ・パンサーズ
フロリダ・パンサーズ Florida Panthers フロリダ州マイアミ</span> | |
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創設:1993年 | |
所属カンファレンス | |
所属ディビジョン | |
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歴代チーム名 | |
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本拠地 | |
収容人員: 19,452人 | |
チームカラー | |
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獲得タイトル(獲得年) | |
スタンレーカップ優勝 | なし |
アブコワールド | なし |
カンファレンス優勝 (1回) | 1996 |
ディビジョン優勝 (1回) | 2012 |
プレジデンツトロフィー | なし |
組織 | |
オーナー: サンライズスポーツ・アンド・エンタテイメント | |
GM: デール・タロン | |
HC: ピーター・ホラチェック | |
主将: エド・ヨバノフスキ |
フロリダ・パンサーズ(Florida Panthers)はアメリカ合衆国フロリダ州マイアミを本拠としているナショナルホッケーリーグ(NHL)所属のプロアイスホッケーチームである。
歴史
1992年、NHLはブロックバスター・ビデオ社の大立者、ウェイン・ホイゼンガ(Wayne Huizenga)に対し、マイアミ(ホイゼンガの故郷)におけるフランチャイズ権を与えた。チーム初期の有力選手は、ニューヨーク・レンジャースをお払い箱となったゴーリーのジョン・バンビースブルック(John Vanbiesbrouck)と新人のロブ・ニーダーマイヤー(Rob Niedermayer) や30ゴールを決めたスコット・メランビー(Scott Mellanby)らである。このチームはNHLのチーム数拡大によって創設されたものの中では、発足1年目で最も成功を収めたチームの一つであるが、それでも勝率5割をほんの少しだけ割り込んで惜しくも東部カンファランス決勝進出を逸した。
1994–1995 シーズンにおいてもプレイオフ進出を僅かの差で逃すと、ロジャー・ニールソン (Roger Neilson) 監督は解雇され、変わってダグ・マクレーン(Doug MacLean)が監督に就任した。試合前の控え室でメランビーが、ホッケーのスティックでネズミをスラップショットで殺してから快進撃が始まり、得点が入る度に観客達から何千ものおもちゃのネズミがリンクに投げ入れられるという現象がおきた。翌シーズン、ゴーリーのバンビースブルックの神懸かり的な働き、ベテランのメランビーやブライアン・スクルードランド(Braian Skrudland)らと、新人のエド・ジョバノフスキ(Ed Jovanovski) (前年ドラフト全体1位指名)、ラデック・ドボラク(Radek Dvorak)らの力が融合し、サンノゼ・シャークスからレイ・シェパード(Ray Sheppard)をトレード期限ぎりぎりで獲得したこともあり、初のプレーオフ進出に向かって歩み始めた。
1996年のプレーオフ進出は、まさにパンサーズの悲願であった。チームはボストン・ブルーインズ、フィラデルフィア・フライヤーズ、そしてピッツバーグ・ペンギンズらを破り、ついにスタンレーカップ決勝進出を果す。このときのフロリダは大いにわいた。フィラデルフィアとピッツバーグに伍してシリーズで復活を果すなど、まさに驚異的であった。しかし、カップ決勝では共にスタンレー・カップ初優勝を目指すコロラド・アバランチと会戦し、第4戦でアバランチのウーベ・クルップ(Uwe Krupp)に延長戦で得点を許し涙を飲んだ。全ての試合が僅差の激闘であった。
翌1997年には、チームは選手の怪我に泣かされ、第1ラウンドでニューヨーク・レンジャースの前に敗退。その翌期の1997-1998シーズンにはさらに怪我人続出の危機に見舞われチームのワースト記録を更新してしまう。
1998年は、ホームをナショナル・カーレンタルセンター(その後オフィス・デポセンター → バンクアトランティックセンターに改称)に移転したが、この新アリーナは移転するチームに対する非難や脅迫などの帰結である。1999年には、電撃的なトレードにより「ロシア製ロケット」 (the "Russian Rocket") の異名をとるパベル・ブレ(Pavel Bure) をバンクーバー・カナックスから獲得。2000年には彼の58ゴールで弾みをつけてまたも、プレーオフに進出したが、第1ラウンドでニュージャージー・デビルス(この年カップ優勝)の前に下った。
2000–2001 シーズンはパベル・ブレの59ゴールも及ばず低迷した。翌2001–2002 シーズンはチームワースト記録をまたも更新した。パベル・ブレはチームメイトに弟のバレリ・ブレ(Valeri Bure)を迎えて奮闘したものの、その後2002年度トレード期限にニューヨーク・レンジャースに移籍した。
その後は毎年のように低迷したが、その代わりにドラフト上位指名権を獲得、2001年Stephen Weiss (4th overall)、Lukas Krajicek (24th overall)、2002年Jay Bouwmeester (3rd overall)、2003年Nathan Horton (3rd overall) & Anthony Stewart (25th overall)、2004:年Rostislav Oleszといった優秀な選手を指名することが出来た。
2005–2006シーズンは、前年度に就任したGMのマイク・キーナン(Mike Keenan)やコーチのジャック・マルタン(Jacques Martin)の元、2000–2001シーズン前にトレードで獲得したオリ・ヨキネン(Olli Jokinen)、ロベルト・ルオンゴ(Roberto Luongo)らが活躍したが、多数の怪我人が出たこともあり惜しくもプレイオフ進出を逃した。
そのシーズンオフ、契約問題でこじれたロベルト・ルオンゴをLukas Krajicekと共にバンクーバー・カナックスに放出、トッド・バーツッジ(Todd Bertuzzi)、Alex Auld、ブライアン・アレン(Bryan Allen)を獲得した。
さらには、2006–2007年度は、そのルオンゴ抜きで戦うのだが、トロント・メープルリーフスからフリーエージェントでエド・ベルフォア(Ed Belfour)を獲得してその年をしのいだ。しかし、2007年度オフには条件付2008年度ドラフト指名権、2007年度ドラフト2巡目指名権、2008年度ドラフト1巡目指名権を放出して、見返りとしてリーグ屈指の好ゴールテンダー、トーマス・ヴォークーン(Tomas Vokoun)をナッシュビル・プレデターズから獲得した。 また、ベルフォアはチームから一切来期契約のオファーを受けず、スウェーデンでのプレーを決意した。 また、2007–2008年度中にキャプテンのJokinenが、旧キャプテン(今は引退)のMellanbyの保持していた「通産ゴール、ポイントのチーム記録」を塗り替えた。
2009-2010、2010-2011シーズンはカンファレンス15チーム中それぞれ14位、15位と低迷。 しかし2011-2012シーズン、ケビン・ディ二-ン(Kevin Dineen)新監督のもと、2001年にドラフト全体4位で入団して以来長年にわたってチームの主力選手であるスティーヴン・ワイス(Stephen Weiss)に加え、ブライアン・キャンベル(Brian Campbell)、トーマス・フライシュマン(Tomas Fleischmann)、クリス・バースティーグ(Kris Versteeg)らを獲得しチームの総合力がアップ。要所で粘り強さを発揮する試合展開が続き、81試合目(レギュラーシーズンは全82試合)にして12年ぶりのプレーオフ進出を決め、最終戦でチーム創設以来初となる地区優勝(カンファレンス3位)を決める快挙を成し遂げた。プレーオフでは第2戦で15年ぶりの勝利をあげ(ホームのバンクアトランティックセンターでは初)、最後は第7戦の2nd OTまでもつれ込むもニュージャージー・デビルスの前に第1ラウンドで敗退しシーズンを終えた。