ピウス4世 (ローマ教皇)
ピウス4世(Pius IV、1499年3月31日 - 1565年12月9日)は、ローマ教皇(在位:1559年 - 1565年)本名はジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(Giovanni Angelo Medici)。中断していたトリエント公会議を再開し、完了させたことでカトリック改革の推進に大きく寄与した。名字は同じだが、メディチ家との血縁はない。
生涯
ミラノ出身。ボローニャ大学で法学を学び、法律家として名声を博した。1527年にローマへ赴き、パウルス3世の寵臣となり、いくつかの街の長官からラグーザの大司教、ボローニャの副教皇使節を経て1549年に枢機卿になった。
パウルス4世の死後の1559年12月25日に教皇に選出され、1560年1月6日にピウス4世として教皇座についた。教皇として彼が初めにおこなったことは、前教皇時代の反乱に参加したとされて断罪した人々の恩赦と、前教皇の下で専横を尽くしたカルロ・カラファ枢機卿とパリアノ男爵の裁判と両名の処刑であった。
1562年1月18日、10年にわたって中断されていたトリエント公会議が再開され、ここに第三会期が始まった。トリエント公会議の再開にはなみなみならぬ努力が必要であった。それは公会議をめぐって教皇庁だけでなく、フランス、スペイン、ドイツという強国のさまざまな思惑が錯綜していたからであった。ピウス4世は甥のカルロ・ボッローメオ枢機卿及びジョバンニ・モローネ枢機卿の助力を得て、なんとかトリエント公会議を閉会までもっていくことが出来た。公会議の議決および教令は1564年1月26日に勅令として布告された。これが「トリエント信条」ともいわれる有名なピウス4世の布告であり、スペインやフランスでは政治的な理由で限定的に受け入れられたにもかかわらず、カトリック世界全体に大きな影響を与えるものとなった。
1564年にはナバラ王国の女王であったジャンヌ・ダルブレをカルヴィニスムの異端容疑で召喚したが、フランス王シャルル9世の激しい抗議によって撤回に追い込まれた。同年、オーストリアとボヘミアにおける御血(ワイン)の拝領を認める勅書を公布している。ピウス4世は建築にも情熱を注いでおり、ローマや教皇領諸都市の修復や装飾、あるいは要塞化のために建築事業を推進した。
晩年の1565年にはベネデット・アッコルティらによる謀反が計画されたが、事前に露見し未遂に終わった。ピウス4世は難を逃れたものの、まもなく世を去った。 テンプレート:Sister テンプレート:ローマ教皇