バリクパパン沖海戦

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | バリクパパン沖海戦
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日1942年1月24日
場所:ボルネオ島バリクパパン沖
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 西村祥治 ポール・H・タルボット
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 軽巡洋艦1
駆逐艦10
小艦艇7以上
輸送船14
駆逐艦4
潜水艦1
航空機9
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 輸送船5、哨戒艇1沈没
輸送船2損傷
駆逐艦1損傷

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バリクパパン沖海戦(バリクパパンおきかいせん、Battle of Balikpapan)とは太平洋戦争初期、1942年1月24日に発生した海戦連合国側呼称、マカッサル海峡海戦

バリクパパン上陸

1942年1月10日、ボルネオ島タラカンを占領した日本軍は、ついで23日、同じ部隊を投入してやはりボルネオ島のバリクパパン上陸作戦を開始した。多数の輸送船を護衛するために、日本海軍軽巡洋艦那珂」を旗艦とする第4水雷戦隊(西村祥治少将)のほか哨戒艇(旧式駆逐艦)や掃海艇などを出動させた。揚陸はおおむね順調に行われたが、オランダ軍B-10爆撃機による空襲とオランダ潜水艦「K-18」の雷撃により、輸送船「南阿丸」と「敦賀丸」が沈没した。

アメリカ艦隊の攻撃

これより前、21日に日本船団の出航を確認した連合軍ABDA艦隊司令部は、船団を攻撃するためにアメリカ海軍の水上部隊に出動を命じていた。アメリカ海軍はウィリアム・A・グラスフォード提督指揮下の軽巡2隻と駆逐艦6隻を出撃させたが、軽巡「ボイシ」は座礁事故で損傷し、軽巡「マーブルヘッド」も機関故障をおこしてしまい、護衛の駆逐艦2隻とともに戦列を離れた。第59駆逐隊(ポール・H・タルボット中佐)のクレムソン級駆逐艦4隻(「ジョン・D・フォード」「ポープ」「パロット」「ポール・ジョーンズ」)だけが日本軍の輸送船団を攻撃できた。

1月24日未明、アメリカ艦隊はバリクパパン沖に侵入した。すでに揚陸を終えた日本船団は沿岸に停泊中だった。沖側を哨戒艇などが警戒していたが、炎上した「南阿丸」や地上施設の煤煙のため視界は不良であった。アメリカ艦隊は日本側に発見されることなく船団に接近することに成功し、最初の魚雷を発射したが、まったく命中しなかった。再度突入したアメリカ艦隊は、哨戒艇などの散発的な抵抗を受けながら二度目の雷撃と砲撃を行い、輸送船2隻(「呉竹丸」「辰神丸」)と特設急設網艦「須磨の浦丸」(輸送船として使用)、「哨戒艇37号」(元駆逐艦「」)を撃沈した。さらに輸送船「朝日山丸」も大破、「球磨川丸」が小破している。

日本軍の護衛艦隊主力は、潜水艦の襲撃と判断して行動したため、アメリカ艦隊を捕捉できなかった。アメリカ艦隊の損害は、駆逐艦「ジョン・D・フォード」が輸送船の砲撃で小破しただけであった。

結果

連合軍は大きな戦果を挙げたが、すでに日本軍部隊の揚陸は完了していたため、バリクパパンの占領を阻止することは出来なかった。しかし、アメリカ海軍は、19世紀のマニラ湾海戦以来初めての東南アジア海域での水上戦の勝利として、その戦果を大きく報じた。

日本軍は生き残った輸送船のうち2隻を使い、2月10日にバンジャルマシンも無血占領して、ボルネオ島をほぼ制圧した。

なお、撃破された輸送船の1隻には、海軍主計中尉として中曽根康弘が乗艦していた。

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