ナレースワン

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ナレースワン大学にある彫像
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ノーンサーラーイの戦い(1593年)でビルマの王太子ミンチット・スラと戦うナレースワン大王、サムットプラーカーン県
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1600年、放棄されたタウングー王朝の都ペグーに入場するナレースワン国王

ナレースワン大王タイアユタヤー王朝の21代目の王。サンペット2世とも言う。マハータンマラーチャー王の子でピッサヌロークの出身。“黒の王”と呼ばれる事もある。

略歴

ナレースワンが幼少の頃、父はピッサヌロークの知事だった。1563年にピッサヌロークがビルマに負けると、養子という名目の人質としてナレースワンはビルマに連行された。人質時代にナレースワンはビルマで戦術を学んだ。

1569年、前期アユタヤー王朝がミャンマーに掌握されると、ピッサヌロークの父はミャンマー政府からの信任を受け、アユタヤの傀儡王に就いた。同年、父王はナレースワンを取り戻すため、娘のスパンカンラヤーをビルマ王の妻として差し出し、代わりにナレースワンを返させた。この後ナレースワンはタイ独立へ向けて、タイ兵士を独特の武道で鍛えた。タイの国技とも言われるムエタイはこのときの武道がその原型となったと言われる。

1574年、ナレースワンは機が熟したと見て、アユタヤー王朝の独立を宣言する。同年ミャンマーのシッタン川でビルマ軍の先鋒を銃殺したのを皮切りに、攻めてくるビルマ軍をことごとくうち破った。アユタヤー王は次々と失地を回復し、ナレースワンが王に就く前に、アユタヤー王朝は以前の栄光を取り戻した。王位に就いた後もビルマに対し数々の戦争をした。ある時カンボジアラウェークを捕らえ斬首し、その血で足を洗った(これは当時インドシナ半島で行われていた一種の戦勝儀式である)。

1604年、ビルマの王ナンタブレンが毒殺されたのを機にミャンマーのタイ族の治めるシャン族の州がタイに寝返った。新たなビルマの国王がこれを討ったため、ナレースワンはシャン族の保護を目的に、自ら兵を率いてアユタヤから北上したが、翌年チエンマイ県の北部で病死した。

現在の評価

現在、彼は救国の英雄としてタイ三大王の一人となっており、50バーツ紙幣の裏面に肖像が使用されている。やや神格化もされ、ムエタイの創設者という意味からムエタイ選手は彼の像の前で、戦勝を祈ることもある。

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