サラーミシュ

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サラーミシュアラビア語: سلامش / Solāmish, الملك العادل بدر الدين سلامش بن الملك الظاهر بيبرس al-Malik al-‘Ādil Badr al-Dīn Salāmish b. al-Malik al-Ẓāhir Baybars)は、マムルーク朝バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1279年)。略してアーディル・サラーミシュ الملك العادل سلامش al-Malik al-‘Ādil Salāmish とも呼ぶ。またサラーミシュの部分はスラーミシュ Sulāmish とも言う。第5代スルターン・アッ=ザーヒル・バイバルスの子で、第6代スルターン・バラカの弟にあたる[1]

1279年にマムルーク朝の将軍たちによってバラカが廃位された後、当時7歳のサラーミシュがスルターンに擁立された[2]。政府の有力者であった将軍カラーウーンがサラーミシュの後見人となり、政務・軍事を取り仕切り、公衆礼拝で読み上げられるテンプレート:仮リンクにはサラーミシュの名の次にカラーウーンの名が入れられた[1][2]

カラーウーンの下でバイバルス家を支持する将軍たちは排除され、カラーウーンの支持者たちが起用された[1][2]。1279年11月27日にサラーミシュは廃位され[2]、カラーウーンがマムルーク朝のスルターンに即位した。

サラーミシュは廃位された後、カラクに移された[2]1280年ダマスカス総督ソンコル(サンカル)がカラーウーンに対して反乱を起こした時、サラーミシュも反乱に加わった[1]

脚注

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参考文献

  • 大原与一郎『エジプト マムルーク王朝』(近藤出版社, 1976年10月)
テンプレート:マムルーク朝
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 大原『エジプト マムルーク王朝』、61-63頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』5巻(佐口透訳注, 東洋文庫, 平凡社, 1976年12月)、103頁