コンラート3世 (神聖ローマ皇帝)
コンラート3世(Konrad III., 1093年 - 1152年2月15日)は、ホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ帝国初代君主(ドイツ王、在位:1138年 - 1152年)。シュヴァーベン大公フリードリヒ1世と皇帝ハインリヒ4世の長女アグネスの間に次男として生まれた。シュヴァーベン大公フリードリヒ2世の弟、オーストリア辺境伯兼バイエルン公ハインリヒ2世、レオポルト4世の異父兄に当たる。
生涯
1125年にザクセン公ロタールがドイツ王ロタール3世に選出されるとこれを認めず、兄と共に反乱を起こし、1127年に対立王に選出されたが、1135年に和睦、王位を放棄した。1137年にロタール3世が死去、ロタール3世には継嗣が無かったため、選帝侯達は次の皇帝を選出するため、コブレンツにて1138年3月7日、皇帝の選挙を行なった。ロタール3世は自分の後継者に婿でヴェルフ家のバイエルン公兼ザクセン公ハインリヒ10世を望んでいたが、投票ではホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が最多票を得て新たな君主として選出された。選帝侯達は強力な皇帝の出現を望んでいなかったため、当時は弱小勢力に過ぎなかったコンラート3世を選んだのである。
即位後はハインリヒ10世を捕縛、公位を没収してザクセンをバレンシュテット伯アルブレヒト熊公、バイエルンを異父弟のオーストリア辺境伯レオポルト4世に与えた。コンラート3世はローマ教皇から戴冠を受けられず、正式な皇帝に即位することなく終わっている。
1147年、教皇エウゲニウス3世の呼びかけに応じて第2回十字軍に参加し、ダマスカスを包囲したが、イスラム軍との戦いに敗れて命からがら撤退している。また、ハインリヒ10世の子・ハインリヒ獅子公とも皇帝の地位をめぐって争うなど、その治世は多難を極めた。しかしコンラート3世は皇帝権力の強化、ホーエンシュタウフェン家の領土拡大に成功を収め、巧みな外交戦略をもってドイツ諸侯と提携を図るなどしている。
1152年、病に倒れて死を悟ったコンラート3世は、甥のフリードリヒ1世(バルバロッサ)を後継者として指名し、間もなく世を去った。コンラート3世には父より先立った長男ハインリヒ5世と次男フリードリヒ4世がいたが、甥のフリードリヒ1世の能力を高く評価していたため、あえて後継者として指名したである。
子女
コンラート3世はズルツバッハ伯ベレンガル2世の娘ゲルトルートとの間に2男を儲けた。
- ハインリヒ5世(1137年 - 1150年):ドイツ王(在位:1147年 - 1150年)
- フリードリヒ4世(1145年 - 1167年):シュヴァーベン大公、ローテンブルク公(在位:1152年 - 1167年)、妻はハインリヒ獅子公の娘ゲルトルート
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