コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)
コンラート2世(Konrad II, 990年? - 1039年6月4日)は、ドイツ王(在位:1024年 - 1039年)、神聖ローマ皇帝(在位:1027年 - 1039年)、ブルグント王(在位:1033年 - 1039年)。ザーリアー朝初代の王。
概要
ザーリア朝はヴェルナー5世を祖として、ヴォルムスガウ伯および、シュパイアーガウ伯の地位を持っていた。ヴェルナー5世はコンラディン家であるドイツ王コンラート1世(若王)の婿であり、後にコンラディン家が断絶すると、フランケン公の地位を得た。その子のコンラート(赤毛公)はオットー大帝の娘のロイガルトを娶って、ロートリンゲン公となった。しかし、コンラートはオットー大帝の子リウドルフの反乱に加担したため、ロートリンゲン公の地位を剥奪された。後のレヒフェルトの戦いでアールパード朝のハンガリー王タクショニュ率いるマジャル人の軍勢に包囲されると、コンラートは岳父を救援して、自身は戦死するも、ハンガリー王国の軍勢を撃退に成功した。その子がケルンテン公オットー2世(老公)である。
父はシュパイアーガウ伯ハインリヒ2世(オットー2世の子)で、母のアーデルハイト(ロートリンゲンのメッツ伯リシャールあるいはリヒャルト[1](マットフリーデ家)の娘)との間の長男として生まれた。
また、レーゲンスブルク大司教のゲープハルトは弟で、ローマ教皇グレゴリウス5世、ケルンテン公のコンラート1世、シュトラスブルク大司教のヴィルヘルムは叔父で、ケルンテン公のコンラート2世とヴュルツブルク大司教ブルーノ2世兄弟(コンラート1世の子)は従弟である。
青年期
コンラートはドイツ国王として選挙されるまで、ほとんど影響力を持たなかった。むしろ家族の相続地からごくわずかな家領を得ただけで、公爵位を得たことはなかった。父ハインリヒ2世が祖父のオットー2世に先立って、990年代ごろ(990年と1000年逝去の説がある)に死去したため、コンラートはフランケン地方に祖父オットー2世から領地を相続する権利を得た。
1000年にヴォルムスガウ司教ブルクハルトと出会い、その教育を受けた。しかしこのような教育の機会にもかかわらず、コンラートは生涯文盲に留まった。年代記作家はコンラートがアルファベットを読めず、またラテン語の読み書きもできなかったと伝えている。
1016年の終わりまたは1017年の初めに、シュヴァーベン公ヘルマン2世の娘、フランケン朝につらなるシュヴァーベンのギゼラと結婚した。ギゼラはシュヴァーベン公領とブルグント王領の相続権を保持していた(母親がブルグント王コンラート3世(古ヴェルフ家)の娘ゲルベルガ)。なお、この結婚は2人が近縁であることにより、教会法によれば不法なものであった。
選挙による国王選出
ハインリヒ2世が子を残さずして死去し、ザクセン朝は男系の血統が完全に断絶した。そのため1024年に、国王選挙のための諸侯集会がオッペンハイムで開催された。この場において、満場一致でコンラート2世がドイツ王に選出され、ザーリアー朝初代の王となった。しかしながら、満場一致とはいえケルン大司教、ロートリンゲン大公などは、この諸侯集会に臨席していなかった。そのためハインリヒ2世と同様に、コンラートも各地を巡行して、こうした各勢力から王位の承認を得る必要に迫られた。
帝国の版図拡大
ザクセン朝が推進したイタリア政策は、ザーリアー朝にも引き継がれた。1026年、イタリア遠征を敢行してミラノでイタリア王の戴冠を受け、その翌年の復活祭の日(3月26日)には、ローマのサン・ピエトロ大聖堂で、ローマ教皇ヨハネス19世から帝冠を受けて皇帝となった。この戴冠式には、ドイツ・イタリアの諸侯だけでなく、当時広大な北海帝国を形成していたデンマーク王クヌーズ1世なども臨席していた。
その後、コンラートは1033年に相続によってブルグントの王位も手中に収める。このことによって、ドイツ(東フランク)・イタリア・ブルグントという3国の王冠が一手に掌握された。この3国の領域が、いわゆる「神聖ローマ帝国」の支配領域を規定する雛型になったといえよう。
1039年、ユトレヒトで死去。息子のハインリヒ3世がその後継者となった。子供は他にベアトリクス(1036年没)とマティルデの娘2人があり、後者はフランス王アンリ1世と婚約したが、早世して子孫を残さなかった。
出典
- ↑ Karl R. Schnith. Mittelalterliche Herrscher in Lebensbildern. Von den Karolingern zu den Staufern.Styria Premium, 1990. Stammtafel.
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