コンスタンティノス6世
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コンスタンティノス6世(ギリシア語:Κωνσταντίνος ΣΤ' (Kōnstantinos VI))、771年 - 797年)は、東ローマ帝国イサウリア朝(シリア朝)の第4代皇帝(在位780年 - 797年)。同王朝第3代皇帝レオーン4世の子。
780年、父レオーン4世の死により即位するが、11歳という幼少であったため、生母のエイレーネーが摂政となって政治を取り仕切った。
エイレーネーはイコノクラスム(イコン破壊運動)には否定的で、イコン破壊令を破棄してイコン復活策を採用した。しかしそのため、イコノクラスムを支持する一派がコンスタンティノス6世と結びついて、エイレーネーと対立した。もともとコンスタンティノス6世は母親と不仲なこともあって、イコノクラスムを支持したが、いつの間にかコンスタンティノス6世はイコノクラスム支持派とも対立してしまう。また、祖父コンスタンティノス5世にならって第一次ブルガリア帝国に親征したが、恐怖のあまり戦わずして逃走するという失態を演じ、軍隊や政府高官の支持も失ってしまった。
この機をとらえたエイレーネーは797年、軍を動かしてコンスタンティノス6世を捕縛し、実の息子でありながら目をくりぬいて[1]追放。エイレーネー自らが、ローマ帝国初の女帝として即位した。
追放されたコンスタンティノスは、コンスタンティノポリスの片隅でひっそりと暮らしていたとも言われているが詳細は不明である。娘のエウフロシュネーは、アモリア王朝初代皇帝のミカエル2世と結婚し皇后になった。
脚注
テンプレート:東ローマ皇帝- ↑ ローマ皇帝の即位の条件には「五体満足でなければならない」という不文律があった。このため、二度と帝位に就けないように、失脚した皇帝の目を潰したり、鼻や耳などを削いでしまうという残酷な処罰が行なわれることがあった。