コスタンツァ (シチリア女王)
コスタンツァ・ダルタヴィッラ(テンプレート:Lang-it-short, 1154年11月2日 - 1198年11月27日)は、シチリア王国の女王(在位:1194年 - 1198年)。オートヴィル朝の最後の君主。ルッジェーロ2世と3人目の王妃ベアトリーチェとの間に生まれた。コスタンツァ・ディ・シチリア(テンプレート:Lang-it-short)とも呼ばれる。ドイツ語名ではコンスタンツェ・フォン・ジツィーリエン(Konstanze von Sizilien)。
父ルッジェーロ2世はコスタンツァが生まれる前に死去している。甥のグリエルモ2世に嗣子が無かったため、彼女が王位継承者と定められていたテンプレート:要出典。しかし1186年、グリエルモ2世の政略で、当時の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の嫡男ハインリヒ6世と結婚した。ハインリヒ6世は彼女より10歳年下であった。
1189年、グリエルモ2世が嗣子無くして病死したため、王位はコスタンツァか、彼女の夫であるハインリヒ6世が継承するはずであったが、シチリア人は外国に嫁いだ王女や皇帝に支配されることを嫌って、グリエルモ2世の従兄にあたるタンクレーディを王位に即けた。ハインリヒ6世は、軍を率いて王位を奪おうとシチリアに遠征したが、タンクレーディの抵抗にあってナポリで大敗を喫し、軍に同行していたコスタンツァも捕虜になった。しかし、すぐに解放されている。
1194年、タンクレーディが死去した後にグリエルモ3世が王位を継ぐが、ハインリヒ6世はシチリアに再度遠征し、王位を奪った。そしてハインリヒ6世とコスタンツァは、戴冠式を行なって正式にシチリア王および女王となった。同年コスタンツァは、当時としては高齢である40歳で息子フリードリヒ(後の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世)を出産した。
1197年、夫ハインリヒ6世が急死した後、コスタンツァはフリードリヒの摂政として実質的な政務を執った。
ドイツ人を嫌っていたコスタンツァは[1]、ハインリヒ6世によってシチリアに封土を与えられていたドイツ貴族を追放しようとして、彼らにシチリアを去るよう命令した。しかし結果として、この行動はドイツ貴族を息子であるフリードリヒの敵に回し、彼らの抵抗によりその後10年もの間、シチリアが内乱状態に陥るだけに終わった[2]。
1198年にフリードリヒはシチリア王位を継承、同年に彼女は夫を追うように死去した。死後、ローマ教皇インノケンティウス3世がフリードリヒの後見人になった。
脚注
引用元
参考文献
- エルンスト・カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』(小林公訳, 中央公論新社, 2011年9月)
|
|