グラハム・ヒル

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テンプレート:Infobox ノーマン・グラハム・ヒルNorman Graham Hill OBE, 1929年2月15日 - 1975年11月29日) はイギリスのレーシングドライバーであり、1962年1968年F1チャンピオン。1996年のチャンピオンであるデイモン・ヒルは実子。

Grahamの発音はカタカナ表記にすれば「グレアム」に近いが、日本では現役活躍時からほぼグラハムと表記されており、本稿でもそれに従う。

人物

2010年現在、F1モナコGP、インディ500ル・マン24時間レースの「世界3大レース」全てでの優勝経験を持つ唯一のドライバー。特にモナコGPには滅法強く、2010年現在で史上2位タイの5勝をあげ、「ミスター・モナコ」と呼ばれたテンプレート:要出典。1990年代以降の日本では「モナコ・マイスター」と呼ばれることがある。

前述のように息子のデイモンが後にF1タイトルを獲得するが、親子二代揃ってF1チャンピオン獲得経験を持つのも、ヒル親子が初であり唯一となっている。

同時期に活躍したジム・クラークが「天才肌」として語られることが多いのに対し、グラハムは「努力型」の代表的なドライバーとして扱われることが多い。

経歴

ロンドンのハムステッドで生まれる。一時期はボート競技の選手で、後にヘルメットに「8本のオール」のマークをデザインするようになる。

自動車免許を取得したのは24歳の時。ロータスのメカニックを経て、1958年にロータスからF1デビューを果たした。2年間在籍したが、この際には芳しい成績を残すことは出来なかった。

BRM時代

ファイル:Grahamhill BRM stackpipeNr17.JPG
BRMのマシンを駆るヒル(1963年)

1960年にはBRMに移籍。当初は目立った成績を残していなかったが、1962年に開幕戦オランダGPで初優勝。最終的にシーズン4勝を挙げ、ロータスのクラークを破って、一気にドライバーズチャンピオンへと昇りつめた。

その後もリッチー・ギンサーとの名コンビで活躍し、クラークと並び当時のF1界の2大スタードライバーと呼ばれた。1964年は最終戦までチャンピオン争いがもつれたが、ポイントリーダーのヒルはフェラーリロレンツォ・バンディーニに追突され、チャンピオンをフェラーリのジョン・サーティースに奪われた。フェラーリが故意にぶつけたのではという報道に対し、ヒルは皮肉混じりに「わざとではない、ただ恐ろしく運転が下手だっただけだ」とコメントした。

初優勝の1962年からは1965年まで、毎シーズン2勝以上を挙げる活躍を見せていたが、新加入のジャッキー・スチュワートに迫られる場面が増えていた。1966年はレギュレーションの変更に因む混乱により苦戦を強いられ、6シーズンぶりの未勝利に終わってしまう。ヒルは成功を共にしたBRMを離れ、ライバルチーム、ロータスへの移籍を決意する。

ロータス時代

1967年のロータスは、クラークとヒルの豪華なジョイント・ナンバー・ワン体制となった。当時クラークは税金対策でパリに居住していたので、ロータス・49の開発テストを任されたが、フォード・コスワース・DFVエンジンの初期トラブルやZF製ギアボックスの低信頼性のため7回リタイアし、49では2戦しか完走できず、1度も優勝できずに(他にロータス・33でモナコGP2位入賞)、ヒルはクラークの陰に隠れてしまった。

1968年はクラークがF2参戦中に事故死したのを受け、ヒルは自らの活躍で沈むチームスタッフを奮い立たせた。この年3勝を挙げ、6年ぶりに自身2度目のチャンピオンを獲得した。

しかし、1969年は新加入のヨッヘン・リントに速さで劣り、またしてもチームメイトの陰に隠れる形となる。第3戦モナコGPでは、自身5度目の同GP優勝を記録したが、これは最終的に自身最後の優勝となった。リントが初優勝した第10戦アメリカGPでは、自らはエンジン再始動時のアクシデントで脚を骨折する重傷を負ってしまう。 テンプレート:-

プライベーターでの参戦

前年の負傷がキャリアの転機となり、1970年よりロブ・ウォーカー・レーシング・チームのプライベート・ロータスで走ることになったが、かつての速さをとり戻すことはなかった。これ以後は優勝はおろか、表彰台に昇ることも無かった。やがて、その熱意は自らのチームを立ち上げ、自ら運転する「オーナー・ドライバー」の夢へと向かうことになる。

チーム設立

1973年に、自分のチームであるヒル (Embassy Racing With Graham Hill) を結成。初年度はシャドウ、翌1974年ローラからシャシーを購入して参戦したが、自らのドライビングによる第7戦スウェーデンGP6位入賞以外は結果を残せずに終わった。

1975年の第4戦スペインGPからは、念願の自社製シャシーGH1で参戦を開始した。しかしマシンは競争力に欠け、過去5勝を記録したモナコGPで予選落ちを喫した。このレースを最後にF1ドライバーを引退し、監督業に専念した。その後は、新鋭のトニー・ブライズアラン・ジョーンズの頑張りにより、チームはこの年3ポイントを獲得した。

事故死

1975年シーズン終了後の11月、ヒルチームはフランスポール・リカール・サーキットで翌シーズン用マシンGH2のテストを決行した。旧マシンと同じく戦闘力の低さに泣かされたテストを終えた帰路、ヒル自ら操縦していた軽飛行機がゴルフ場に墜落。同乗していたメインドライバーのトニー・ブライズ含むチームのメンバーたちと共に、ヒルは帰らぬ人となった。天候が悪化していたエルストゥリー飛行場に脚代わりの自動車が置いてある事から、ヒルが無理矢理着陸を強行した事が起因とされる。何度かの大クラッシュを生き延び、18年間走り続けたドライバーの皮肉な最期だった。

その際に保険に加入していなかった事が、グラハムの遺族に莫大な補償金を背負わせる結果を招き、その後ヒル家は一転して窮乏生活を強いられる事になった。この時、長男デイモンは15歳で、後に彼も父と同様、レーサーを志す事となった。

エピソード

  • 裕福な階級出身ではなく、F1デビューも29歳と遅い苦労人だったが、口ひげを蓄えた優雅な風貌や紳士的な物腰は、かつてモータースポーツが貴族の趣味であった時代の「ジェントルマン・ドライバー」を思わせた。息子デイモンも幼い頃、その姿に憧れたと語っている。一方で、ひょうきんな素顔を持つ人だったという。
  • 息子デイモン、孫ジョシュアもグラハムから引継いだオールのデザインのヘルメットを着用している。
  • 1999年、ノーサンプトンシャー州シルバーストンにある英国レーシング・ドライバーズ・クラブからグラハムのブロンズ像が盗まれる事件がおこったが、9年後の2008年、ボルトン、リトルリバーのビヴァリー・ロードの家で発見された。後日、この像がシルバーストンにあるイギリス・レーシングドライバークラブ (BRDC) に戻ったが、当時BRDC会長であった息子デイモンはこの件について「BRDCのクラブハウスにこの胸像が戻ってきたことは格別だ」と述べ、「レーシング・ドライバーとしても、チャンピオンとしても、彼(グラハム・ヒル)はとても特別で、感動を与えることができる人物だった。警察が銅像を追跡し、ふさわしい場所にやっと取り戻してくれたことは素晴らしい」と語った[1]

脚注

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関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

先代:
フィル・ヒル
デニス・ハルム
F1ドライバーズチャンピオン
1962年
1968年
次代:
ジム・クラーク
ジャッキー・スチュワート

テンプレート:F1ドライバーズチャンピオン テンプレート:ロータス テンプレート:BRM

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  1. グラハム・ヒルの胸像、クラブに戻る - F1通信・2008年1月25日