カール13世 (スウェーデン王)
カール13世(Karl XIII, 1748年10月7日 - 1818年2月5日)は、ホルシュタイン=ゴットルプ朝最後のスウェーデン王(在位:1809年 - 1818年)。ノルウェー王としてはカール2世(在位:1814年 - 1818年)。アドルフ・フレドリクの子でグスタフ3世の弟。母は、プロイセン王女ロヴィーサ・ウルリカ。
生涯
カールは、兄グスタフ3世の1772年クーデターに協力したことで、兄よりセーデルマンランド公爵の儀礼称号を与えられた。また、1788年に始まったロシア・スウェーデン戦争にはスウェーデン海軍の提督として指揮を執った。兄グスタフ3世が1792年に暗殺されると摂政団の一員となっている。
カール公爵の甥であるグスタフ4世アドルフは、ナポレオン戦争とロシア・スウェーデン戦争(1808年 - 1809年)での敗北を受け、立憲革命で廃位にされた。貴族によるクーデターだった。グスタフ4世はナポレオンに対し一歩も引かず、議会も無視し、強引に政策を押し通しスウェーデン国民の反感を買ってしまったのである。クーデターにより臨時政府が樹立し、グスタフ4世の叔父カール公爵が摂政に任命される。この臨時政府の下で新憲法が制定され、カール公爵がカール13世として国王に即位した。
スウェーデンは窮していた。ナポレオン戦争に巻き込まれ、ロシア帝国に敗れて長年支配していたフィンランドを失った(フレデリクスハムンの和約)。そしてヨーロッパ本土はイギリスとロシアを除きナポレオンに席巻されていた。しかもカール13世には世継がいなかった。数限りない問題と憂鬱に取り囲まれていたのである。そこにナポレオンがスウェーデンに新たに難題を押し付けるのである。大陸封鎖令である。窮しきったスウェーデンは参加を余儀なくされるが、取り敢えずスウェーデンは一国を安堵された(パリ条約)。
次に問題に上がったのは、スウェーデンの王位継承者問題である。王妃ヘートヴィヒ・エリーザベトとの間には子供が育たなかった。先王の王太子だったグスタフ王子は退けられ、当初はデンマーク王家であるオルデンブルク家の分家アウグステンブルク家のクリスチャン・アウグスト(カール・アウグストと改名)が王位継承者に指名されていたが、指名後間もなく事故で死去した。その後も後継者問題で揺れたものの、紆余曲折の末、議会、国民、そしてカール13世の一致した見解により、フランス皇帝麾下のベルナドット元帥が王位継承者に指名された。ベルナドットはスウェーデンに赴くと、王太子と同時に摂政にも就任し、スウェーデンの国政の実権を握った。
このベルナドットの御陰でスウェーデンは息を吹き返し、ナポレオン戦争に打ち勝ち、勝利国として名を連ねた。ウィーン会議では、ノルウェー王位も認められた(スウェーデン領ポンメルンはプロイセンに割譲したが、その補償としてザクセン=ラウエンブルクの取得を認められたものの、ノルウェー獲得の代償としてデンマークに譲ることとなった)。しかしいずれの功績も、全てベルナドットの貢献による賜物であった。1814年にノルウェー王も兼ねた後、1818年に70歳で死去した。カール13世をもってホルシュタイン=ゴットルプ朝は終わり、新たにスウェーデンの王朝としてベルナドッテ王朝が開始されるのである。
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