アンコール・ワット
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アンコール・ワット(テンプレート:Lang-km, テンプレート:Lang-en)は、カンボジアにあるアンコール遺跡の一つで、遺跡群を代表する寺院建築。
サンスクリット語でアンコールは王都、クメール語でワットは寺院を意味する。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。
歴史
12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として30年を超える歳月を費やし建立される。
1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れ去られるが再発見され、テンプレート:仮リンクは1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のテンプレート:仮リンクは仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えたという。
1586年、ポルトガル人のテンプレート:仮リンクが西欧人として初めて参拝し、伽藍に対する賛辞を残している。1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていたことが伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のテンプレート:仮リンクの紹介によって西欧と世界に広く知らされた。
1887年、カンボジアが仏領インドシナとされ、1907年にシャムからアンコール付近の領土を奪回すると、フランス極東学院が寺院の保存修復を行った。
1972年、カンボジア内戦によって極東学院はカンボジアを離れ、寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされたという。
1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。
だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。
内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。
今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。参道の石組みの修復は日本人の石工が指導しており、その様子はNHK「プロジェクトX」で取り上げられた。
伽藍
主に砂岩とラテライトで築かれ、西を正門とする。 寺院は付近の製鉄技術を活用している。 境内は外周、東西1,500メートル、南北1,300メートル、幅190メートルの濠で囲まれている。 神聖な場所を飾るため、回廊は精緻な薄浮き彫りで埋め尽くされている。
西からの参道は540メートルにおよび[2]、砂岩のブロックが敷かれた延長239メートル、幅12メートル、高さ4メートルの[1]土手道で環濠を渡って進む[3]。この砂岩が敷かれた陸橋はかつて乳海攪拌の様子を描いた蛇神ナーガの欄干で縁取られていたというが、今は堀に落ちており見られない。中程には石段の船津が備えられている。土手道を渡り終えると周壁と西大門へ至る。
周壁は東西1,030メートル、南北840メートルでラテライトにより築かれている。
西大門は南北230メートルほどで、三塔を戴き、中央に王の門と左右に2つの門が開く。さらに南北には階段がなく、ゾウが通れる象門を2つ備える。王の門の左右は7つの頭を持つ蛇神ナーガが護っており、付近の堀は石段の船津を備え、ラテライトの壁で護られている。
西大門を抜けると、大蛇の欄干に縁取られた参道を通り前庭を進む。
前庭は南北にそれぞれ経蔵と聖池があり、参道から外れると聖池はその水面に堂宇を映し出す。また北には、今もここで仏に祈りを捧げる僧侶らのために、僧坊が近年になって建てられた。
前庭を越えると三重の回廊に囲まれ5つの祠堂がそびえる。
第一回廊は東西200メートル、南北180メートルで、多くの彫刻が施されている。
西面南には、インドの叙事詩である『マハーバーラタ』の場面があり、左から攻めるパーンダヴァ族と右から攻めるカウラヴァ族の軍が細かく描かれている。西面北には、『ラーマーヤナ』の説話が幾つかあり、特にラーマ王子と猿がランカー島で魔王ラーヴァナと戦う場面が大きい。ここの王子の顔は建立者のスーリヤヴァルマン2世を模しているという。南面西は「歴史回廊」と呼ばれ、行幸するスーリヤヴァルマン2世とそれに従う王師、大臣、将軍、兵士などが彫られている。南面東は「天国と地獄」と呼ばれ、上段に天国へ昇った人々、中段に閻魔大王らとその裁きを待つ人々、下段に地獄へ落ちた人々が彫られている。地獄では痛々しい刑が行われており、また下段から中段に逃れようとする罪人も見られる。東面南は乳海攪拌の様子が彫られ、神々と阿修羅らが大蛇ヴァースキを引き合ってマンダラ山を回し、海を混ぜている。東面北と北面は後の16世紀頃にテンプレート:仮リンクが彫らせたと考えられており、他とは彫刻の質が異なっている。ヴィシュヌ神の化身クリシュナが怪物バーナと戦う場面が描かれている。
第一回廊と第二回廊の間はプリヤ・ポアン(千体仏の回廊)と呼ばれ、南北に経蔵が建ち、十字回廊で繋がっている。プリヤ・ポアンには、信者から寄進された多くの仏像が供えられていたが、クメール・ルージュにより破壊され、今は芝が生い茂っている。十字回廊は4つの中庭を囲んでおり、かつて中庭は雨水を湛え、参拝者はそこで身を清めたという。南には森本右近太夫一房の墨書が見られ、「ここに仏四体を奉るものなり」とある。
第二回廊は東西115メートル、南北100メートルで、17段の石段を登り入る。彫刻などは無く何体かの仏像が祀られている。そこを抜けると石畳の中庭に入り、第三回廊と祠堂を見上げることとなる。
第三回廊は一辺60メートルで第二回廊より13メートル高く、急勾配の石段を登って入る。四隅と中央には須弥山を模した祠堂がそびえ、本堂となる中央の祠堂は65メートルの高さを持つ。かつて本堂にはヴィシュヌ神が祀られていたというが、今は壁で埋められ四体の仏像が祀られている。第三回廊に囲まれた4つの中庭は、かつては雨水を湛えていたというが、今は涸れている。壁面には王宮の舞姫を模したという多くの女神が彫られ、参拝者の触れた痕が見られる。連子窓から外を見ると、周囲の伽藍とカンボジアの森林が一望できる。
観光
シェムリアップの中心部から北に6.5kmほど離れており、公共交通機関はない。アンコール遺跡全体が広い範囲に点在していることもあって、タクシー、トゥクトゥク、バイクタクシーなどをチャーターするか、レンタサイクルを利用するのが一般的である。
この寺は西を正面としており、午前に写真を撮ると逆光になるため、午後の観光が好まれる。日の出が美しく、早朝に訪れる人も多い。正面からは年2度中央の祠堂からの日の出を見ることができる。
第三回廊への13メートルの石段は急である。登ることを諦め、ただ第三回廊を見上げ続ける人々も見られる。第三回廊は修復工事のため2007年10月1日から立ち入りが禁止されていたが、2010年1月15日より拝観を再開した。登ることが許可されるのは、東側の階段一か所のみである。入場時間は7:40から17:00まで。
脚注
参考文献
- 石澤良昭『アンコール・王たちの物語』、日本放送出版協会
- 『ベトナム・アンコールワット』、JTBパブリッシング
- テンプレート:Cite book
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関連項目
- アンコール遺跡
- 世界遺産
- 森本一房 寛永9年(1632年)に訪れた日本人。父の菩提と母の後生のため、仏像4体を寄進。回廊には、日本語の墨書も残る。
- 一ノ瀬泰造 カンボジア内戦下の1973年に、クメール・ルージュ占領下のアンコールの撮影を試み、犠牲となった戦場カメラマン・ジャーナリスト。