アル=アーディル
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アル=アーディル(アラビア語: الملك العادل سيف الدين أبو بكر بن أيوب al-Malik al-?Ādil Saif al-Dīn Abū Bakr b. Ayyūb b. Shādī、生没年:1145年 - 1218年、在位:1202年 - 1218年)は、アイユーブ朝の第4代スルタン。サラーフッディーンの弟。通常「スルターン・(アル=マリク・)アル=アーディル」などと称される。「アーディル(عادل ?ādil)」とはアラビア語の原義では「公正なる者」を意味する。イスラム社会の政治的理念によれば、君主やウンマを統括するような政治的指導者の必須の徳目としてアドル(عدل ?adl)「公正(たること)」が第一に挙げられている。
生涯
兄に従って十字軍との戦争で活躍した。第3回十字軍の総司令官・リチャード1世と交渉して、和睦を成立させたのはアーディルの手腕によるものである。
兄の死後、兄の遺児たちによる権力闘争が始まると、アーディルはこれに巧みに介入して兄の長男であるアル=アフダルを追放したうえで、1202年にスルタンとして即位した。即位後は西欧諸国との融和や十字軍との休戦協定の延長、ヴェネツィア共和国との交易による経済交流など、アイユーブ朝の平和と発展に尽力した。
しかし1218年、第5回十字軍の侵攻によって平和は破られた。そしてアーディルは、ディムヤートでのアイユーブ軍の敗報を聞いたショックから心臓発作を起こして、まもなく死去したと言われている。74歳没。後を長男のアル=カーミルが継いだ。
エピソード
- 前述のようにリチャード1世との外交交渉を担当していたが、もとより戦場でリチャード1世に駿馬を贈るなど個人的に親交が深く、交渉中に更に気に入られてリチャードの妹ジョーンを妻に娶るように提案された。結局は兄・サラディンの反対で実現しなかった。
- 兄・サラディンがエルサレム王国を滅ぼしたとき、多くの欧州人の捕虜があった。サラディンは身代金を支払うことで捕虜を解放しようとしたが、期限の40日を過ぎても身代金を支払えない捕虜が多くあった。そのためサラディンが捕虜の対応に苦慮しているとき、アーディルはサラディンに対して1000人の捕虜を譲るように求めた。サラディンが弟に捕虜を与えると、彼はそれを全て解放してしまった。驚いたサラディンが尋ねると、「アッラーへのお供えとして全員自由にしたまでです。これが一番いいのです」と答えたという。これにより、サラディンも捕虜を全て解放したという。
参考文献
- アミール・アリ『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)