クレメント・アトリー
テンプレート:政治家 初代アトリー伯爵 クレメント・アトリー(Clement Richard Attlee, 1st Earl Attlee, 1883年1月3日 - 1967年10月8日)は、イギリスの政治家。首相(在任:1945年 - 1951年)。 労働党党首(1935年 - 1955年)。ラムゼイ・マクドナルド以来2人目の労働党出身の首相で、同党出身の首相として初めて4年の任期を全うできただけでなく、任期中に議会で過半数の議席を得ることができた首相でもある。
プロフィール
弁護士時代
ロンドン出身。オックスフォード大学卒業後弁護士となり、ロンドンのスラム街にあったセツルメントに関わる。第一次世界大戦に出征するも負傷し、除隊後は政界に転じる。
政界
1919年には労働党出身者初の首長としてステップニーの市長となった後、1922年の総選挙に初めて立候補する。かつて関わりのあったロンドンのスラム街を地盤として選挙戦を戦い、見事下院議員となる。
1924年にマクドナルドが内閣を組織した際には、陸軍次官を務める。その後、逓信相、労働党下院代表などを経て、1935年に引退するジョージ・ランズベリー(George Lansbury)の後任として労働党党首となる。
第二次世界大戦中、ウィンストン・チャーチルの挙国一致連立内閣では王璽尚書(1940年 - 1942年)、副首相(1942年 - 1945年)として入閣し、1945年5月23日の連立解消まで務めた。
1945年の総選挙
ヨーロッパ戦線の終結後の初の総選挙は、1945年7月5日に投票が行われ、26日に開票が行われた結果、以下のような結果となった。
- 保守党:8,656,966票、193議席
- 労働党:11,567,996票、381議席
- その他政党:3,883,696票
保守党は181議席を失い、チャーチル、アンソニー・イーデンら6名の閣僚が当選したものの、残りの閣僚は全員落選する事態となった。チャーチルはポツダム会談に参加中であったが、7月25日のポツダム宣言発表後直ちに帰国。翌26日に内閣総辞職した。なお総選挙を控えていたため、このポツダム会談にはアトリーも次席として参加していた。
首相
労働党の勝利後、党内ではモリソンや党幹部のハロルド・ラスキがアトリー追い落としを狙っていた。しかし、すでにチャーチルが保守党の敗北を認め、次期首相にアトリーを推していたことから、アトリーはバッキンガム宮殿を訪れ、国王ジョージ6世から組閣の命を拝した。首相就任後直ちにイギリス全権としてポツダム会談に参加した(8月2日に終了)。
首相在任中は、第二次世界大戦で疲弊したイギリスの戦後復興を推進、ジョージ6世の反対を押し切って、労働党の公約であった基幹産業の国有化と「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障制度の確立を行い、社会主義政策を矢継ぎ早に実現していった。しかし、1947年の寒波で国内は大きな打撃を受け、さらに戦後復興のためにアメリカ合衆国が示したマーシャル・プランを受け入れるなど、国際経済における主導権は失われた。
また、アジアにおける長年のイギリスの植民地であったインド、パキスタン、セイロン、ビルマの独立を承認した。1948年には、チベット使節団が訪英し、アトリーに面会している[1]。
しかし、インド・パキスタンでは宗教問題から分離独立となり、委任統治領だったパレスチナではユダヤ人とアラブ人の対立に対処しきれずその解決を国際連合に委ねるなど、過去における植民地支配、分割統治の爪痕を残す結果となった。
1951年10月に行われた総選挙で、チャーチル率いる保守党に敗北したことにより、首相を辞任した。
首相辞任後
首相辞任後も労働党党首の座に留まっていたが、労働党が1955年5月に行われた総選挙で、チャーチルに代わって新たに党首に就任していたイーデン率いる保守党に敗北したことで、12月に党首を辞任し下院議員を辞職。しかしその後爵位を授かり(初代アトリー伯兼プレストウッド子爵)、以後は貴族院議員となるが、1967年10月に肺炎で死去した。
関連項目
参考文献
脚注
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テンプレート:Politician-stub テンプレート:イギリスの首相 テンプレート:労働党 (イギリス)
- ↑ Farrington, Anthony, "Britain, China, and Tibet, 1904-1950".