あまつかぜ (護衛艦)

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艦歴
発注 1960年
起工 1962年11月29日
進水 1963年10月5日
就役 1965年2月15日
退役
その後 実艦標的として海没処分
除籍 1995年11月29日
要目
排水量 基準: 3,050t
全長 131m
全幅 13.4m
吃水 4.1m
機関 石川島FW式D型2胴水管ボイラー
(40kgf/cm², 450℃, 120t/h)
2缶
IHI/GE衝動型蒸気タービン
(テンプレート:Convert)
2基
推進器 2軸
速力 最大33kt
電力 タービン発電機 (1,000kVA) 2基
停泊用ディーゼル発電機 (250kVA) 2基
非常用ディーゼル発電機 (250kVA) 1基
乗員 290名
兵装 68式50口径3インチ連装速射砲 2基
Mk.13 単装ターター発射機
※後にSM-1MRに対応
1基
Mk.16 8連装アスロック発射機 1基
Mk.15ヘッジホッグ対潜迫撃砲 2基
Mk.2短魚雷落射機
※後に3連装短魚雷発射管に換装
2基
C4I WDS Mk.4
Mk.74 ミサイルFCS 2基
Mk.63 mod.14FCS
※後にFCS-2-21Dに換装
2基
レーダー AN/SPS-39 三次元式
※後に-39Aに換装
1基
AN/SPS-29A 対空捜索用 1基
AN/SPG-51B ミサイル射撃指揮用 1基
ソナー AN/SQS-4A 捜索用
※後にAN/SQS-23に換装
1基
AN/SQR-8 深度探知用
※後のAN/SQS-23搭載時に撤去
1基
電子戦 NOLR-1B 電波探知装置(ESM)
※後にNOLR-6に換装
OLT-3電波妨害装置(ECM)
※後日装備
Mk 36 SRBOCデコイ発射装置
※後日装備

あまつかぜテンプレート:Lang-en, DDG-163)は、海上自衛隊ミサイル護衛艦(DDG)である。日本初の艦対空ミサイル装備艦であり、現代武器システムの運用について貴重な経験を提供したほか、船体・機関設計でも後に多くの影響を残した。同型艦はない。

艦名は、古今和歌集において、巻第十七 雑歌上の872首目として収録された僧正遍昭の歌[脚注 1]に由来する[1]旧海軍磯風型駆逐艦「天津風」、陽炎型駆逐艦天津風」に続き日本の艦艇としては3代目。またこの艦名およびジェット気流からの連想により、現役中は公式のニックネームとして「ジェット・コースター」と称されていた[2]が、波浪に対し思いの外よく動揺することからその名が付いたと、まことしやかに言われていた。

来歴

1957年(昭和32年)11月、来日中のアメリカ海軍作戦部長アーレイ・バーク大将と海上幕僚長 長澤浩海将との会談の席上、海上自衛隊に対して、当時まだ米海軍でも配備前であった新鋭艦対空ミサイルであるターターの供与に関する打診がなされた。これを受け、海自でも ターター・システム搭載艦に関する検討が開始され、1958年(昭和33年)8月には調査団を派米した。1959年(昭和34年)には、これらの調査・検討は海上幕僚監部による正式業務に移行し、これを受けて、ターター・システム搭載艦は昭和35年度(1960年度)計画艦として予算成立にこぎつけた。これによって建造されたのが本艦である[3]

当初は、あきづき型護衛艦をベースとした基準排水量2,600トン級で基本設計が行われていた。しかし派米調査により、この規模では納まらないことが判明、数次にわたる改設計作業を経て、1962年(昭和37年)夏、基準排水量3,050トン、機関出力6万馬力の基本計画がまとめられ、同年度予算において、この艦型拡大に伴う建造費増額への手当がなされた。しかしこのような経緯のために工期は大きく遅れ、起工は当初予定の1961年(昭和36年)10月に対して1962年(昭和37年)11月、就役は1963年(昭和38年)8月に対して1965年(昭和40年)2月15日となった[3]

船体・機関

設計に当たっては、当初は上記のとおりあきづき型に範をとる予定であったが、結局、計画年度において1年先行していたいすず型(34DE)で新採用されたスペースベースの手法を踏襲することとなり、従来艦よりも艦内容積が拡充された。艦型としても、34DEを拡大した2層の全通甲板を有する高乾舷の遮浪甲板型が採用されている。この艦型は非常に成功したことから、これ以降の多くの護衛艦においてさらに踏襲された[3]

主機関としては、当初は船体設計と同様に初代あきづき型のものを踏襲する予定であったが、艦型拡大を補うため出力増強が求められたことから、より強力な3万馬力の蒸気タービンが導入された。しかし蒸気性状は同型と同一圧力テンプレート:Convert、温度450℃とされており、将来戦闘艦を見据えて高圧・高温化を志向した試みが実を結ぶことになった(蒸気発生量は強化されて120トン/時となった)。また機関区画配置についても同型のそれが踏襲されている[3]。なお本艦は、国産護衛艦では最速の艦でもあり、その記録は現在まで破られていない(貸供与艦も含めればあさかぜ型護衛艦が上回る)[4]

本型では、ターター・システムの大所要電力を賄うため、主発電機として1,000kVA蒸気タービン駆動発電機を2基、停泊用として250kVAのディーゼル駆動発電機を2基、非常用として同出力のディーゼル駆動発電機を1基搭載した。しかしディーゼル駆動発電機1基ではターター・システムの保守・訓練用電力を賄えず、一方で2基の並列運転では電圧が安定せずシステムへの悪影響が懸念されたことから、カリフォルニア州ロングビーチでの装備認定試験(SQT)の際には、航泊問わず主機を常時運転して電力を供給するという、海上自衛隊では前例のない措置を余儀なくされ、現代武器システムにおける電力供給の重要性に関して重大な教訓となった[3]

装備

対空武器システムとしては、アメリカ海軍においてほぼ平行して整備が進められていたチャールズ・F・アダムズ級ミサイル駆逐艦の後期建造艦に準じたターター・システムが導入された。主兵装の艦対空ミサイルにはターターを導入し、その発射機(GMLS)としては新しい単装のMk.13 mod.0を後甲板に配置した。ミサイル射撃指揮装置(GMFCS)としてはMk.74を2基搭載し、そのAN/SPG-51B射撃指揮レーダー2基は第2煙突後方に背負い式に設置された。システムのメインセンサーであるAN/SPS-39 3次元レーダーは第2煙突前方のラティスマスト上に、それを補完する長距離対空捜索用のAN/SPS-29[脚注 2]は第1煙突前方のラティスマスト上に設置された。これらの各構成機器は電気的に直接連接された統合システムを構成しており、当時の他の武器システムがいずれも人力操作と艦内通話装置を介していたのに対して、非常に画期的であった[3]。また、このように最新のテクノロジーであるとともに極めてデリケートな取扱を要求されたことから、乗組員らからは尊崇と皮肉を込めて「ター様」と呼ばれた。

一方、その他の武器システムにおいては、予算と工期の問題から妥協を余儀なくされた。主砲としては、当初アダムズ級と同じ最新鋭のMk.42 5インチ単装速射砲の搭載が検討されていたものの、上記の経緯により建造費が高騰していたことから断念され、最終的に、Mk.33 3インチ連装砲Mk.63 砲射撃指揮装置、各2基の装備で妥協した。この組み合わせは1次防世代護衛艦の標準装備であった。また水測装備はDDAあきづき型と同じく捜索用のAN/SQS-4Aと深度測定用のAN/SQR-8、対潜兵装はDDKあやなみ型と同じくMk.15ヘッジホッグ対潜迫撃砲とMk.2短魚雷落射機が搭載された[3]

このような経緯から、本艦は、数次に渡り計画的な改装を受けることになった。

対潜戦(ASW)能力向上改修(1967~68年/昭和42~43年)
水測装備は、捜索用のAN/SQS-4Aと深度測定用のAN/SQR-8の組み合わせから、2次防世代艦と同じく、マルチ・モードのAN/SQS-23に換装された。対潜兵器としては、Mk.2 483mm短魚雷落射機をMk.32 324mm短魚雷3連装発射管に換装、またアスロック8連装発射機1基を装備し、やはり2次防世代艦と同等の火力まで向上した[3]
ターター・システム第1次改装(1969~72年/昭和44~47年)
3次元レーダーをAN/SPS-39Aに換装[脚注 3][2]し、これに伴い後部マストを4脚檣に変更した。また射撃指揮レーダーをAN/SPG-51Cに換装するとともに、システムをスタンダードミサイル1型(RIM-66A SM-1A)に対応するよう改修し、対水上戦能力が付加された。これに伴い、1972年(昭和47年)、再度ロングビーチにおいて装備認定試験(SQT)が行われた[3]
ターター・システム第2次改装(1977~78年/昭和52~53年)
SM-1シリーズの本格量産機であるRIM-66B SM-1MRに対応するとともに、システムをデジタル化(GMFCSのコンピュータをアナログ式のMk.118からデジタル式のMk.152に換装するなど)した。これに伴い、1978年(昭和53年)、再度ロングビーチにおいて装備認定試験(SQT)が行われた[3]
電子装備能力向上改修(1982~83年/昭和57~58年)
砲射撃指揮装置(GFCS)を新型の国産機である81式射撃指揮装置2型21D(FCS-2-21D)に換装する特別改装を実施、有人式の艦砲と無人式のGFCSを組み合わせるという、海自で他に類を見ない砲熕武器システムが構築された。また電波探知装置(ESM)をNOLR-6Bに換装するとともにOLR-9Bミサイル警報装置、Mk 36 SRBOCも搭載、改装の翌年(1984年)にはさらにOLT-3電波妨害装置(ECM)も追加装備された。これら新規搭載された電子装備は、はつゆき型(52DD)とほぼ同等のものであった[3]

また、1990年(平成2年)の定期整備時にSUPERBIRD衛星通信システムのアンテナが搭載された[4]

艦歴

「あまつかぜ」は、第1次防衛力整備計画に基づく昭和35年度計画3,000トン型護衛艦2303号艦として、三菱重工業長崎造船所で1962年11月29日に起工し、1963年10月5日に進水、1965年2月15日に就役した後に第1護衛隊群に直轄艦として配属され、横須賀に配備された。本艦はたちかぜ型護衛艦たちかぜ」が就役するまでの11年間、唯一のミサイル装備艦であり、「虎の子」的存在だった。また上記のように、海自としては異例の計画的な改装が数次に渡って行われたことにより、護衛艦としては異例の30年間にわたり第一線で活躍した。

1980年「ひえい」およびP-2J哨戒機部隊とともに、海上自衛隊初参加の環太平洋合同演習(リムパック80)に派遣された。本艦は米空母「コンステレーション」機動部隊(ブルー機動部隊)の構成艦となり、演習中4回の艦対空交戦をすべて成功させたほか、仮設敵である豪海軍「メルボルン」の航空攻撃により大破した「コンステレーション」への再攻撃を企図して接近してきた米原潜「サーゴ」と接敵、これを「撃破」したことにより、本演習における最優秀艦として高く評価された[5]

1981年3月27日、「あさかぜ」が就役し、第1護衛隊群に第61護衛隊が新編され、ともに配属された。

1986年3月27日第3護衛隊群に直轄艦として編入され、定係港も舞鶴に転籍となった。

1988年3月23日、「しまかぜ」が就役し、第3護衛隊群に第63護衛隊が新編され、ともに配属された。

1995年11月29日除籍。30年の現役期間において、5回の派米訓練(リムパックを含む)、10回の観艦式に参加しており、総航走距離は約140万キロに達した[4]。最終的には、若狭湾沖で対艦ミサイルの実艦標的として海没処分とされた。左舷プロペラが横須賀教育隊、右舷プロペラが横須賀基地、また主錨が舞鶴基地に残されている。

歴代艦長

歴代艦長(特記ない限り1等海佐
氏名 在任期間 出身校・期 前職 後職 備考
9 伊東隆行 1976年12月 - (n/a; 1978年在任) 海保大56・6期幹候
10 是本信義 (1980年在任) - 1981年1月19日 防大3期
11 吉村健思 1981年1月20日 - 1982年1月25日 くらま」艦長
12 久光哲 1982年1月26日 - 1983年1月19日
13 谷徹彦 1983年1月20日 - (n/a)

脚注

  1. 天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ
  2. まもなく後継のOPS-11が配備されたことから、AN/SPS-29は海上自衛隊では他に搭載艦がなく、本型特有の装備となった。
  3. 空中線部はAN/SPS-52と同じ部品を採用したため、一部資料ではAN/SPS-52として記載されているが、実際にはAN/SPS-39からAN/SPS-39Aに更新した形となっている。

出典

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参考文献

  • 石橋孝夫『海上自衛隊全艦船 1952-2002』(並木書房、2002年)
  • 世界の艦船 増刊第66集 海上自衛隊全艦艇史』(海人社、2004年)
  • 『世界の艦船 第750集』海人社、2011年11月号

外部リンク

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テンプレート:あまつかぜ型護衛艦

テンプレート:護衛艦
  1. テンプレート:Cite journal
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite journal
  3. 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 テンプレート:Cite journal
  4. 4.0 4.1 4.2 テンプレート:Cite journal
  5. テンプレート:Cite journal