船中八策
船中八策(せんちゅうはっさく)は、江戸時代末期(幕末)に土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が慶応3年(1867年)に起草した新国家体制の基本方針とされるものの俗称。
概要
慶応3年(1867年)6月、坂本龍馬はいろは丸沈没事件を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の夕顔丸で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して口頭で提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したとされている。
研究
この「船中八策」には長岡謙吉が書き留めたとされる長岡自筆の書面は残っていない[1]。そのため創作の可能性を指摘されることもあるが、坂本龍馬は大政奉還後の11月に船中八策と内容が共通している「新政府綱領八策」と呼称される新政権の構想を複数自筆しており、これについては龍馬自筆のものが2枚現存している(国立国会図書館と下関市立長府博物館)。
また、この書面が船中八策とどのような関係にあるものかについても諸説がある。菊地明は「新政府綱領八策」が龍馬から後藤象二郎に示された八策の原案であり、文書の11月という日付は作成日ではなく筆写日だと推測している。青山忠正は龍馬が手紙の中で近世に定型的だった書簡用の文体(候文)を正確に用ないことから、龍馬が抽象的な概念を駆使する能力がなかったという見解を示し、龍馬自筆原本が現存している「新政府綱領八策」までも、前述の理由から龍馬の案とは考えにくいと推測している。
内容
伝えられる内容は以下のとおり。
公議政体論のもと、
など、当時としては画期的な条文が平素な文章として記されている。 龍馬と交流のあった勝海舟、大久保一翁の影響、福井藩の政治顧問であった横井小楠からの影響も指摘されている。また由利公正や上田藩士の赤松小三郎、真木保臣(久留米水天宮宮司、久留米藩士)が1861年(文久元年)に著した『経緯愚説』から影響を受けたとする説もある。
8番目の経済政策は、海援隊を組織して貿易を行なっていた龍馬らしい着眼点といえる(金銀の交換レートが国内と国外で異なっていると、二国間で金銀の交換を行なうだけで利益を上げられるので、貿易や物価安定に好ましくない)。
薩土盟約や土佐藩の大政奉還建白書、五箇条の御誓文にまで連なる内容を持ち、卓越した議論といえる[2]。