羽幌炭鉱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

羽幌炭鉱(はぼろたんこう)は北海道北西部留萌炭田の中心的炭鉱1935年操業開始。羽幌本坑、上羽幌坑、築別坑の3地区から成っていた。良質炭を算出することで知られ、大変人気があった。

1970年(昭和45年)12月にたて坑の密閉作業や[1]、鉄道の廃止[2]、閉山式を行って完全に閉山した[3]

特に羽幌本坑には、中国の龍鳳炭鉱(撫順市)、福岡県の志免鉱業所の流れを汲む、ワインディング・タワー(塔櫓捲式)と呼ばれるタイプの櫓が現存している。
閉山時の事情・状況については羽幌炭礦鉄道に詳しいので参照のこと。

ファイル:築別炭鉱跡.JPG
現存する羽幌炭鉱築別坑のホッパー棟
ファイル:羽幌本坑立坑櫓.JPG
現存する羽幌炭鉱羽幌本坑の立坑櫓

所在地

北海道苫前郡羽幌町築別、曙、三毛別、太陽、上羽幌、旭丘など築別川上流、羽幌川上流地域一帯

交通

実業団

会社としての羽幌炭鉱は、その業績もさることながら実業団活動に力を入れ、野球部、男女バレー部、スキー部ジャンプチームは国内トップクラスの実力を誇った。

スキー部

笠谷昌生などが活躍。また昌生の弟笠谷幸生も練習に帯同していた。
他に大内勝蔵(1963年全日本選抜スキー大会70メートル級準優勝)、大森享一、菅野弘二、菊地英一(1963年冬期国体青年の部飛躍5位、同年全日本スキー選手権60メートル級5位)、岸本光夫、竹内賢司、松井孝(1960年スコーバレーオリンピックスキージャンプ代表)佐藤義勝(第41回全日本スキー選手権50キロ優勝)といった選手が所属していた。 また、当時日本では大倉シャンツェに次ぐ規模を持ったジャンプ台も抱え、スキー部の練習はもちろん、大会も行われていた。また、町内にある高校スキー部に与えた影響も大きいことは見逃してはいけない。例えば羽幌高校の沢田久喜、羽幌太陽高校の吉岡世一などがいる。因みに、羽幌炭鉱の閉山に伴い、高校のスキー部は廃部になった。

野球部

ドラフト指名選手も2名所属した

  • 樋口実(1965年大洋5位)
  • 真崎勝(1965年東京6位)
  • 宮崎一夫(元札幌トヨペット監督)

男子バレー部

日本リーグ1部に所属した

女子バレー部

地域リーグで常に優勝を争っていた

男子卓球部

日本リーグ2部に所属していた

往時の町の賑わい

主鉱は築別鉱と上羽幌鉱で共に羽幌炭礦鉄道が通っていて、駅前の商店街には居酒屋パチンコ店、病院映画館、50mプールなどがあり大変な賑わいを見せていた。

ファイル:旧太陽小学校校舎.JPG
築別鉱地区に現在も残る旧太陽小学校校舎、手前の円形ドーム状の建物は体育館

現在の姿

1970年に閉山した当時、1万人近くいたヤマの人口は現在では50人にも満たない典型的な廃墟地帯となった。

その他

以下の会社も、羽幌炭鉱を設立母体としていた。

  • 大五タクシー(社名の“大五”は、羽幌炭鉱の札幌本社が大通西5丁目にあったことに因む)※現在は同業の東邦交通(札幌)に合併された
  • 日商プロパン石油株式会社(現在は大阪ガスグループ)

脚注

  1. “閉山1ケ月 廃虚に変わる羽幌砿”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1970年12月11日)
  2. “『サヨナラ羽幌炭砿』”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1970年12月15日)
  3. “小雪の中で羽幌炭砿の閉山式”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (1970年12月20日)

外部リンク

テンプレート:Asbox