極楽寺坂切通し
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極楽寺坂切通し(ごくらくじざか きりどおし)は鎌倉七口のひとつ。鎌倉七口の中では最も西南に位置し、鎌倉市の極楽寺方面から由比ヶ浜方面に抜ける道である。
鎌倉時代の公文書といえる「吾妻鏡」には極楽寺坂切通しの名は見られず、京都と鎌倉を結ぶ重要な連絡路としては、鎌倉時代初期には海岸沿いの稲村路が使われていたと考えられている。しかし、鎌倉時代後半に極楽寺坂が開かれ、以後、主要な交通路となった。
極楽寺の寺伝によれば、同寺の実質的な開祖である真言律宗の僧・忍性が最初に切り開いたとされる。忍性の入寺は文永4年(1267年)で、乾元2年(1303年)に同寺で没しており、寺伝が確かであればこの間に開かれたことになる。
歴史上、極楽寺坂を有名なものとしたのは、元弘3年(1333年)の新田義貞鎌倉討入りである。分倍河原の戦いの後に藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を巨福呂坂、化粧坂方面と極楽寺坂方面に分け、鎌倉攻略を図った。極楽寺方面の新田軍は大館次郎宗氏 江田三郎行義を大将とし、鎌倉軍は大仏陸奥守貞直が大将として迎え撃った。しかし、極楽寺坂切通しは険しい上に、幕府軍がすでに陣を整えて待ちかまえていたために、新田軍はこれを破ることができず、左将軍・大館宗氏はここで戦死する。結局、新田義貞は極楽寺坂切通しの突破は困難と判断、剣を投じて干潮を祈願したとの伝説を生んだ稲村ヶ崎を通って鎌倉に攻め入り、鎌倉幕府は終わりを告げる。
鎌倉七口のなかでも朝比奈切通し、名越切通し等は山中にあり江戸以前の趣をなお残しているが、極楽寺坂切通しは現在は普通の車道として整備されている。
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