林秀貞

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林通勝邸跡(愛知県北名古屋市沖村)

林 秀貞(はやし ひでさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将織田氏の家臣。通称は新五郎、壮年期以降は佐渡守の受領名を名乗る。父に林通安(八郎左衛門)、弟に林通具(美作守)、子(あるいは娘婿)に林通政(新次郎)・林一吉がいる。

長年「通勝(みちかつ)」と伝えられてきたが、正しくは秀貞であり(『言継卿記』等)[1]松永久秀の家臣の林通勝と混同されたと考えられている。ただ、子の林勝吉(のちの林一吉)、孫の林勝久と、「勝」を通字としている事から、初めは通勝で後に主君・織田信秀の秀の字を与えられ、秀貞と改名した可能性も考えられる。

生涯

織田信秀・信勝時代

林氏尾張春日井郡沖村(愛知県北名古屋市沖村)を本貫とする土豪であった。秀貞は織田信秀に仕えて重臣となり、幼少の信長に那古野城(現在の名古屋市)が与えられた際に1番家老としてつけられた(『信長公記』)。2番家老は平手政秀であり、まさしく信長の後見役である。天文15年(1546年)に行われた古渡城での信長の元服では介添え役を務めた。当時の織田家臣団の例に漏れず秀貞も若年の信長の奇行には頭を痛めており、天文21年(1552年)に信秀が死去すると信長の弟である織田信勝擁立を画策するようになる[2]

弘治元年(1555年)に信長が織田信友を殺害して清洲城を占拠すると那古野城の留守居役に任ぜられた。その後も織田氏の諸分家を糾合するなどして戦国大名として頭角を表し始めた信長であったが、秀貞の不安と不満は解消されなかったようで、弘治2年(1556年)に柴田勝家や通具らとともに織田信行を擁立して挙兵するが稲生の戦いで敗北する[3]。しかし信長からは許されて勝家とともに宿老の立場に据え置かれた[3]。ただ、秀貞は稲生の戦いには参戦しておらず、参戦していたのは勝家と秀貞の弟・美作守通具であり、秀貞の動向は不明である[3]

織田信長の筆頭家老として

信長に赦免された後はこれまで通り織田家の家宰として清洲同盟の立会人等の外交や行政面を中心に活動した。秀貞は軍人というよりは政治家であり、信長が発給した政治的文書には常に署名している[3]。そのため武将としての派手な活躍機会は非常に少ない[4]。ただし全く軍人としての働きが無かったわけではなく、『信長公記』では播磨神吉城攻防戦などわずかながらも出陣した形跡はある[4]。ただ、恐らくは軍監か軍目付、後詰など予備部隊を率いる武将として従軍していたのではないかと推測される[4]

政治的には信長からかなり重きに置かれており、信長が足利義昭を奉じて上洛した際、信長の重臣と義昭の重臣が起請文を交わした際には秀貞が1番に署名している[4]。『言継卿記』によると山科言継が信長に拝謁する際には常に秀貞が奏者・取次役を果たしたとされている[4]。信長が開く茶会においても秀貞は他の重臣と共に招かれるのが常であり、天正7年(1579年)に安土城の天主が完成した際に信長は秀貞・村井貞勝の両名にだけ天主の見物を許しており、少なくとも追放の前年までは信長との関係は良好だった事が伺える[4]

秀貞は行政官として堅実な手腕は持っていた事が信長に評価されたものと思われ、天正3年(1575年)11月に家督が織田信忠に譲られるとともに信忠付となった。その後は与えられた所領の面では柴田勝家・佐久間信盛明智光秀・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)などに追い抜かれていくが、重臣筆頭としての地位を保っていた。

追放と最期

天正8年(1580年)8月、信長から24年も過去の信勝擁立の謀反の罪を問われて追放された[5][2]。この追放劇に関しては理由が24年も前の事柄であるため余りにも難癖じみており、その真相については不明な点が多い。『信長公記』では「仔細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり」とある[5]。つまり信長がかつて信長包囲網で窮地に陥っている時に謀反を企てた、敵と通じたというのであるが[1]、この記述はあまり信用できない。一説に秀貞が老齢で役に立つ事が少なくなった、実力主義を採用していた信長にとって秀貞の働きに不満があったという説があるが、それなら隠居を強制的にさせれば済む話であり、織田軍団に動揺を招く追放にした理由は不明である[4]

追放後は京都に居住し南部但馬と改名したり、安芸に身を移したりして余生を過ごしたとされる[6]。ただ追放された時の秀貞は既に高齢であり、追放がよほどショックだったためもあってか、追放から2ヶ月後の10月15日に死去したと言われるが、定かではない。現在も、広島市内に墓石がある[6]

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
史料
  • 『言継卿記』
  • 『信長公記』
  • 1.0 1.1 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究者、2008年、p.221
  • 2.0 2.1 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究者、2008年、p.222
  • 3.0 3.1 3.2 3.3 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究者、2008年、p.223
  • 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究者、2008年、p.224
  • 5.0 5.1 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究者、2008年、p.220
  • 6.0 6.1 川口素生 編『戦国名物家臣列伝』学習研究者、2008年、p.225