松平信輝
テンプレート:複数の問題 テンプレート:基礎情報 武士 松平 信輝(まつだいら のぶてる)は、江戸時代前期から中期の大名。武蔵川越藩の第3代藩主。のち下総古河藩の初代藩主。松平伊豆守系大河内松平家3代。
生涯
万治3年(1660年)4月8日、川越藩2代藩主松平輝綱の四男として武蔵で生まれた。3人の兄が早世したため嫡子となり、7月18日には井上正任の娘と婚約し、延宝7年(1679年)7月25日に結婚した。寛文12年(1672年)に従五位下・伊豆守に叙任される。延宝8年(1680年)に信輝と改名した。
寛文11年(1671年)12月に父が死去したため、翌年2月に家督を継いだ。このとき、弟の輝貞に5000石を分与したため7万石となった。
元禄7年(1694年)1月7日に下総古河に移封される。宝永6年(1709年)6月18日、家督を長男の信祝に譲って隠居した。享保10年(1725年)6月18日に死去、享年66。
人物・逸話
テンプレート:複数の問題 元禄3年(1690年)時点の全国大名の評判記である『土芥寇驟記』では、信輝は善智で邪智が無いが、「此ノ将耳遠キハ、何ヨリ大将之疵ナリ。襲ズンバ、祖父信綱ノ役儀ナリ共、勤メラルベキ程ノ器量ナルニ、可惜也」と信輝の耳が遠いことを惜しんでいる。信輝は武芸を尊び、家臣も武芸に励む人が多かった。公儀を大切にし、忠を専らと心がけたという[1]。
一方で父の輝綱が死去してわずか13歳で要地川越を継承したとき、必ず国替えがあると家臣や世人は思っていた。しかし祖父・信綱の余慶のおかげで「たとい祖父信綱の忠勤を上に思食さるると雖も、当伊豆守(信輝)其の器に非ずんば、争か御膝下之城に差置せらるべきや」とある。つまり信輝には器量無く老中になれない大名であるにも関わらず、川越在城を許されたのは祖父の余慶のおかげというのである。なお、この『土芥寇驟記』成立の4年後に信輝は古河に移封された[2]。
年譜
- 万治3年(1660年)4月8日、松平輝綱の四男として誕生。幼名は亀千代。
- 寛文12年(1672年)2月9日、川越藩主になる。弟の輝貞に5000石を分与。
- 寛文12年(1672年)12月28日、従五位下・伊豆守に叙任。
- 延宝4年(1676年)2月28日、前髪をとる。
- 延宝7年(1679年)7月25日、井上正任の娘と婚姻。
- 延宝8年(1680年)、名を晴綱から信輝に改める。(月日不詳)
- 元禄7年(1694年)1月7日、下総古河に転封。
- 宝永3年(1706年)8月8日、母龍泉院が死去。
- 宝永6年(1709年)6月18日、致仕。隠居後は宗見と号する。
脚注
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