平野長裕
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平野 長裕(ひらの ながひろ、弘化2年11月2日(1845年11月30日)- 明治5年6月24日(1872年7月29日))は、大和田原本藩の初代かつ最後の藩主。平野長発の次男。母は松平直寛の娘。正室は山崎治正の娘徳子。官位は従五位下、内蔵助、遠江守。妹に万寿子(鷲尾隆聚室、池田徳潤室、戸田氏良室)。子に平野長祥、平野鑒吉、鷲尾花(鷲尾隆聚養女、三河産治夫人)。
幼名は亀松丸。次男だったが、長兄の平野亀丸が早世したため、跡を継いで5000石の旗本となる。幕末期においては佐幕派と尊王派の間を巧みに立ち回り、慶応4年(1868年)7月14日、新政府の計らいで実高に高直しされ1万石で大名に列し、ここに田原本藩を立藩した。
その後は明治天皇に拝謁して京都の警備を勤めた。また、明治2年(1869年)7月20日には藩知事となる。そして姫嶋無適を執政として藩政改革を断行したが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官となった。翌年6月24日、東京で死去した。享年28。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。