帰依

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帰依(きえ)とは、仏教用語において、拠り所にするという意味。「三宝」に「帰依」、つまり仏教徒になるという意味で最も多く使われる。

概略

一般的に、仏教に帰依をする際には「三帰五戒」(さんきごかい)を授かることになり、三宝に礼拝するとともに五戒を授かる。 サンスクリットの「zaraNa शरण」パーリの「saraNa」は、保護所・避難所という意味である。中国語には「依帰」という言葉が『書経 』に出てくる。これは「頼りにする」という程度の意味である。

  • 大乗仏教の一部の宗派では、帰依とは勝れたものに対して自己の身心を帰投して「依伏信奉」することをいう。
  • 「自帰依自灯明、法帰依法灯明」(パーリ語:attadiipo attasaraNo dhammadiipo dhammasaraNo)という場合の「帰依」は、「この世で自らを島(洲)とし自らを拠り所にして他人を頼りとせず、法を島(洲)とし法を拠り所として他を拠り所とせずにあれ。」という意味である。

仏法僧の「三宝」に帰依することを、先の様に三帰依(さんきえ、パーリ語:tisaraṇa、サンスクリット語:tri-śaraṇa)というが、この三帰依の文章は仏道に入る儀式である『受戒会』や『得度』にも用いられ、しばしば音楽法要にも使われる。


八宗の祖と仰がれる龍樹菩薩は、「仏法の大海は信[1]の一字をもって入る」と『大智度論』の中で述べていて、また、弘法大師・空海は「仏法の殊妙を聞かば、必ずよく帰依し信受すべし」と『十住心論 』に述べている。

三帰依文

三宝に帰依した後は以下の文章を毎日3回唱えて仏法僧への誓いを新たにし、御仏や諸尊、加えて御先祖様の加護を祈るようにする。

また、『華厳経』浄行品第7にある、以下の経文を「三帰礼拝文」とし、日本の伝統宗派では唱えながら礼拝する場合もある。

  • 自帰於仏 当願衆生 体解大道 発無上意
  • 自帰於法 当願衆生 深入経蔵 智慧如海
  • 自帰於 当願衆生 統理大衆 一切無碍

真宗大谷派では、開経偈と併せて以下のように唱える。

人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自から僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。
我いま見聞し受持することを得たり。
願わくは如来の真実義を解したてまつらん。

なお、南方仏教ではパーリ語で仏法僧の三宝への文章を、以下のように3度繰り返して帰依を表す。

  • 1度目の帰依
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(サンカン・サラナン・ガッチャーミ)
  • 2度目の帰依
Dutiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
Dutiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
Dutiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(ドゥティヤンピ・サンカン・サラナン・ガッチャーミ)
  • 3度目の帰依
Tatiyampi Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・ブッダン・サラナン・ガッチャーミ)
Tatiyampi Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・ダンマン・サラナン・ガッチャーミ)
Tatiyampi Saṅghaṃ saraṇaṃ gacchāmi(タティヤンピ・サンカン・サラナン・ガッチャーミ)

帰依の意義

注釈

  1. ここでは帰依と信心の両方を指す。
  2. ブッダ:仏陀、覚者。直接的には歴史上の釈迦牟尼仏を指し、広義には諸仏・菩薩や仏像をも含める。
  3. ダルマ:仏法。主に『大蔵経』における律蔵・経蔵・論蔵の「三蔵」の教えを意味する。
  4. サンガ:正しくは「僧伽」(そうぎゃ)。いわゆる20名以上の僧侶の集団である事が必要で、具足戒を保持している状態の人々を指す。