学生セツルメント
テンプレート:国際化 学生セツルメント(がくせい-せつるめんと、Student settlement)とは、大学生による貧民救済事業として始まった日本の学生サークル活動。
19世紀、イギリスのケンブリッジ大学やオックスフォード大学の学生が、貧民街に入り隣保館(セツルメント)のボランティアとして医療相談や法律相談、学校に行けない子どものための教育事業を行ったのが始まりだと言われる。
日本
戦前
日本には大正時代に紹介され、東京帝国大学の学生を中心に活動が開始された(帝大セツルメント)。
戦後
戦後は、日本共産党系の学生が中心となり、全国学生セツルメント連合(全セツ連)が結成された。武装闘争路線をとっていた日本共産党の、地域人民闘争の一環であるとともに、学生を「民主的知識人勤労者」に育てる場とされた。
1960年の朝日新聞社会面には、「全国学生セツルメント連合大会始まる」との記事がトップを飾っている。 当時はまだ極貧層が多く、学生セツルメントの社会的役割が大きかったのであろう。教養主義者として知られる山下肇も、東大教養学部(駒場)のセツルメント活動に共感を寄せている[1]。
しかし、高度経済成長の進展と共に、極貧層が非常に少なくなり、学生セツルメント運動の存在意義がみえなくなっていった。このころ全セツ連は、学生が地域に貢献することよりも、学生が地域社会と関わることで、大学で学問を学ぶことがどのように社会に役立つのかを学ぶ場、自己を成長させるためのサークル活動として位置づけなおすことになった。これはある程度功を奏し、1980年代前半までは一定数の学生をひきつける運動になっていた。
1980年代
それでも1980年代半ばになると、学生セツルメント運動は急速に衰退する。まず事業内容から医療相談が消え、法律相談も消え、1980年代後半に残っていたのは教育事業だけになった。学生セツルメントでは老舗であった亀有セツルメントも、1987年には活動を停止している。
衰退していく学生セツルメント運動の中で、京都学生セツルメント連合(京セツ連)が1985年に「85京都テーゼ」を提言。ここには、学生セツルメント運動の理念と活動方針である3本柱(「地域実践活動」、「学習調査活動」、「国民のたたかいの一翼として~要求実現運動」)が記された。そのため、全国の学生セツルメント運動が、ボランティアサークルと化していく中で、京セツ連(立命館大学「つくしんぼセツルメント」と佛教大学「鴨川セツルメント」)のみが、1960年代からの流れを受けて活動をしていた。
脚注
- ↑ 山下肇「日本の息子」『同じ喜びと悲しみの中で』所収
参考文献
- 全国学生セツルメント連合書記局編『同じ喜びと悲しみの中で』三一新書、1957年
- 氷川下セツルメント史編纂委員会『氷川下セツルメント「太陽のない街」の青春群像』エイデル研究所、2007年、ISBN 9784871684279