国友
国友(くにとも)は、近江国坂田郡の地名で、現在の滋賀県長浜市国友町。戦国時代から江戸時代末期まで、堺と並び称される鉄砲の生産地として栄えた。
概要
「国友」の名は単なる地名に留まらず、国友の工人「国友鍛冶」や、国友で生産される銃「国友筒」をも指した。鍛冶銘は「国友」姓で統一されて「江州 国友藤兵衛重恭」などと切る。村がひとつの工業団地的性格を持ち、銃身など主要部分を作る鍛冶のほかに、銃床を作る「台師」、「からくり」と呼ばれる機関部や各種の金属部品それに銃身や地板(機関部基板)等に施す装飾の象嵌等にそれぞれの専門職人が居り、分業体制がとられていた。
国友における鉄砲製造の起源は、天文13年(1544年)、将軍・足利義晴より見本の銃を示され作ったのが始まりと伝えられる。江戸時代には幕府と密接に連携して一定量の発注を受けて生産し、工人らは交代で江戸に詰め、江戸城での銃器メンテナンスも行った。各地の領主の招聘に応じその地に逗留・移住する銃工も多く、それら銃工の作品には「国友」銘のほか本名で鐫られたものも多い。国友出身でない銃工が国友で修行して「国友」を名乗る例や、商品価値を高めるための「国友」銘もあるといわれる。
並び称せられた堺の銃が豪華な装飾金具や象嵌を施した「見た目の付加価値」であるのに対し、国友の製品は「機能美的」に洗練された秀作が多い。日本の古式銃の約4分の1は国友銘と云われ、堺と人気を二分していた。
台師の「大嶋吉兵衛」、象嵌師の「臨湖堂充胤」などは名工として知られる。また国友一貫斎(藤兵衛重恭)は「気砲」と呼ばれる蓄気ボンベ式の空気銃や高性能望遠鏡の開発で知られる。日本におけるネジ発明の地でもある。
現在、鉄砲の技術は長浜八幡宮の祭りに繰り出される曳山(山車)や長浜仏壇の金具に生かされている。
備考
- 最後の将軍・徳川慶喜は、隠居後、鉄砲鍛冶・国友に「釘形の剣(棒状手裏剣)」を鍛えさせ、手裏剣の稽古を続けたとされ[1]、明治期の間、手裏剣の加工もしていたことがわかる。
- 国友村の鉄砲鍛冶は、その技能の高さから別の職人集団へと独立した一派も存在し、例として、伊勢国亀山に移った者達は、鍔職人「亀山鍔」として名をはせた。