三河物語
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三河物語(みかわものがたり)は、大久保忠教(彦左衛門)によって書かれた、徳川氏と大久保氏の歴史と功績を交えて武士の生き方を子孫に残した家訓書である。
概要
元和8年(1622年)成立。上・中・下の3巻からなり、上巻と中巻では徳川の世になるまでの数々の戦の記録が、下巻では泰平の世となってからの忠教の経験談や考え方などが記されている。
忠教は「門外不出であり、公開するつもりもないため他家のことはあまり書かず、子孫だけに向けて記した」「この本を皆が読まれた時、(私が)我が家のことのみを考えて、依怙贔屓(えこひいき)を目的として書いたものだとは思わないで欲しい[1]」と記しているが、書かれてすぐに写本が作られた形跡がある[2]。
江戸時代には写本が一般に出回り、人気になったと伝えられている。ただし一般に流布したものは下巻の後ろ3分の1ほどが欠けている[3]。
戦国時代~江戸時代初期を知るための一次史料だが、徳川びいきの記述が目立ち、創作もある[4]。さらに踏み込んで、政治性を強く帯びた「譜代プロパガンダの書」だという指摘もある[5]。また、内容には歴史著述だけでなく、忠教の不満や意見などがそのまま現れている。
珍しい特徴として、仮名混じりの独特の表記・文体で記されており、この時代の口語体を現代に伝える貴重な資料としての側面もある。
関連作品
- 安彦良和『三河物語』マンガ日本の古典23 - 三河物語そのものをモチーフとした作品ではなく、関ヶ原の戦い直後から晩年の忠教の姿を、彼に仕えた一心太助の視点から語るという体裁になっている。三河物語の内容そのものは、彦左衛門が語る軍談として断片的に引用されている。
- 宮城谷昌光『新三河物語』- 彦左衛門(作中では幼名の平助で呼ばれる)を主人公として、大久保一族の活躍と挫折を書く。三河物語を著した後の姿も書かれている。
- 童門冬二『老虫は消えず 小説大久保彦左衛門』- 三河物語が江戸城の武士らに熟読される理由「付箋」が語られている。
脚注
- ↑ (下巻の巻末より。同様の文章は同じく三河出身の室町期の武将今川了俊の著書「難太平記」にも記されている)
- ↑ 「検証 長篠合戦」平山優
- ↑ 「三河物語の成立年について」高木昭作
- ↑ 一例として、松平信康の切腹事件についての記述は、家忠日記や安土日記(信長公記の一部)、当代記などの記録と食い違っている事から、事実ではないと見られている。(『信長と家康 清州同盟の実態』谷口克広 および 『織田信長 戦国最強の軍事カリスマ』桐野作人)
- ↑ 「群雄創世紀」山室恭子
参考文献
- 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研(学研M文庫)、2000年、ISBN 4059010014
- 『三河物語』の文体 ―文語体と口語体宇都宮睦男, 愛知教育大学研究報告, 人文科学. 1994, 43, p.234-220.