モアブ
テンプレート:Otheruseslist モアブとは、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、死海の東岸、アルノン川(現ヨルダン・ハシェミット王国のワディ・アル・ムジブ)以南からゼレド川以北(現ヨルダンのワディ・アル・ハサ)の高原地帯に広がる地域を指す。この地域は、現在のヨルダン・ハシェミット王国のカラク高原地域(カラク県)にほぼ等しい。 なおモアブと呼ばれた地域は、中世イスラム期にはマアブ(Maāb)と呼ばれていたことが、9世紀のアラブ人地理学者ヤクービ(al-Yaqubi)の記述から分かる。
旧約聖書によれば、ロトとロトの長女との間に生まれた息子モアブ(מואב ヘブライ語で「父によって」の意)に由来し、その子孫がモアブ人となってエミム人を打ち払ってその地域に定住したとされている[1]。
考古学による検証
モアブ人の存在は多数の考古学調査の結果によって証明されている。モアブ人は鉄器時代にはカラク地域に王国を築いており、同地域がイスラム教の影響下に置かれる前には「モアブ」と呼ばれていたことも突き止められている。カラク高原地域に存在するBalu'a等の鉄器時代の集落遺跡が、モアブ王国の集落であったと考えられている。また、ヨルダン川東岸の地域、つまりアルノン川より北の地域のうちヨルダン川を西の境界としヤボク川を東の境界とする地域については、「モアブの野」「モアブの平野」[2]などと表現される。この地域はかつてアンモン人の支配下にあり[3]、後にアモリ人の支配下に移ったとされる。
モアブ人の実在を証明する最大の証拠は、メシャ王の時代に作成されたとされるメシャ碑文で、紀元前850年の「イスラエルの王オムリ」に対するモアブ人の勝利が記され、モアブの主神ケモシュが称えられている。メシャ碑文に加えて、1958年にはヨルダン南部の都市カラクでモアブ文字で書かれた碑文の断片が発見されている(カラク碑文)。この碑文にもモアブの主神ケモシュの神殿に関する言及がある。カラクは聖書のキル・ヘレス(Kir Heres)であるとされるが、ここがモアブの首府であったとする説もある。カラク碑文は現在、カラク考古博物館(カラク城内)に展示されている。
聖書のモアブ人
聖書ではモアブ人に対する拒絶的な記述が目立つが、考古学的に見れば、モアブ人とイスラエル人(ユダヤ人)は通婚や交流が絶え間なく続いたとする意見が多い。聖書に於いても、モアブ人女性ルツはダビデの祖先であるとされ、イエス・キリストの家系図へも登場する[4]。このような記述から、モアブ人に対しての聖書の視点には、多少のズレが生じている。
イスラエル人が荒野のカデシュからカナンに向かう際に、モアブ人は彼らが自分たちの土地を通行することを許可しなかった。しかし、神からエドム人・モアブ人・アンモン人とは争わないよう警告されていたため、イスラエル人はモアブの領土の東を迂回してアルノン川の北へと移動する。この頃すでに、アルノン川以北の「モアブの平野」はアモリ人によって支配されており、ここを通過する許可を得ようとしたイスラエル人とアモリ人との間に戦闘が起こり、結果としてこの地域のアモリ人は滅ぼされる。これを目の当たりにした当時のモアブ人の王バラクは、イスラエル人を呪わせるためにバラムを雇い、バラムの策略によって大勢のイスラエル人がバアルに崇拝を捧げ、2万4千人のイスラエル人が民の間から絶たれる。この出来事は、聖書の他の記述において、「ペオルの事件」「ペオルのバアル」などと呼ばれている。
その後の記述では、士師エフドがモアブのエグロン王と戦ったことや、サウル王がモアブ人と戦ったことが記されている。また、ダビデ王の時代になると、モアブ人はイスラエル人に隷属するようになる。聖書の列王記下 3章では、北イスラエル王国のアハブ王の死後、モアブのメシャ王が反乱を起こし、北イスラエル王国のヨラム王がメシャ王を迎え討ったとされる。これはメシャ碑文の記述と同一の事柄を指しているとされるが、ヨラム王はオムリ王の孫であるため、若干ズレが発生している。