バインナウン
バインナウン王(1517年 - 1581年、在位:1551年 - 1581年)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の一人。この王は小タイ族の王朝、アユタヤ王朝に何度も攻撃を仕掛けたことがあり、タイの歴史書に頻繁に登場するのでタイ語訛のブレーンノーン王(สมเด็จพระบุเรงนอง)と言う表記がされることもある。
バインナウンは、パガンのサトウヤシから砂糖を精製する業者の息子であると言われる。バインナウンは幼児の頃、おむつにシロアリ(チャテー)がたかったので、幼少期にはチャテーとあだ名された。バインナウンが生まれたすぐ後にタウングーの王、ミンチーニョーの妻の一人に息子が出来たので、バインナウンの母は乳母としてこの王の息子の養育にあたった。この王の息子はのちにタビンシュエーティー(1517年 - 1551年)として父の後に即位した。
母が乳母として王宮に入ったので、バインナウンも王宮で育つことになり、成人すると役職を与えられた。しかし、王女と恋愛関係に陥った事件があり、ミンチーニョーはバインナウンを罰しようとしたが、この時ある仏僧が仲介に入り事なきを得た。後に乳母兄弟であるタビンシュエーティーが即位(1531年)すると、バインナウンはこの王女との婚姻が許され、バインナウン(王の兄)という名を与えられた。タビンシュエーティーの統治期間ほとんどのタビンシュエーティーの送った軍に参戦し、大きな勲功を挙げ、猛将として知られるようになり、遂にタビンシュエーティーにより副王に任命された。
タビンシュエーティーが崩御すると、タウングー王朝は分裂を始めた。崩御の年の1551年、バインナウンはタビンシュエーティーの弟と共同で首都のタウングーをモン族から奪還。同年に中央ビルマを完全に掌握した。1553年にはアワを攻撃して占領すると、そこへ遷都した。バインナウンは前の王の時代から居たポルトガル人鉄砲隊を巧みに利用し領土を拡大、1558年、ラーンナータイ王朝があったチエンマイを支配下に置いた。1559年までにはバインナウンは上ビルマ全域を支配下に置いた。1559年には西ビルマに侵攻してきたインドのマニプール軍を制圧。1569年にはタビンシュエーティーの念願であった、アユタヤ王朝の首都・アユタヤの領有を画策、兵糧責めにした。アユタヤは難攻不落と言われていたが、バインナウンの一年以上に及ぶ兵糧責めにより、脱走兵が続出し最終的に陥落、白象王と呼ばれたアユタヤ・チャクラパットから白象四頭と人質を取り、毎年30頭の象と300斤の銀の納入を約束させ、委任統治した。
しかし、この後アユタヤではチャクラパットやその後に即位したマヒンが死亡したので、アユタヤのマハータンマラーチャー(サンペット1世)を即位させた。サンペット1世は人質として取られている自分の息子を、自分の王女と引き替えに解放を要求した。バインナウンはこれに応じたが、これが逆にバインナウンの猛将ぶりの終わりとなった。このサンペット1世の息子は、ナレースワンと呼ばれたがナレースワンは現在のラオスにあったラーンサーン王国と共同で1574年にビルマに反旗を翻し、アユタヤの独立を達成。この後ナレースワンはバインナウンの占領したタイ族の領土を次々と回復した。後にバインナウンは1574年にラーンサーン王国を攻撃しているが失敗に終わっている。
1581年、バインナウンは66人の子供を残し崩御したが、その後この強力な王が死んだのをみて各地の有力者が独立を始め、タウングー国内は再びバインナウンの即位前の状態に逆戻りした。しかしながら、平民から出世しビルマを大きくしたこの王の偉業はビルマ人の記憶に残り続け、今でもビルマ人に英雄視される王の一人である。
参考文献
- 大野徹 『謎の仏教王国パガン』 NHKブックス 2002年