和帝 (漢)
和帝(わてい)は後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。
幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の気持ちを察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。
鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。
外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。
文化面では、永元4年(92年)の班固・班昭兄妹による『漢書』の完成、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良があげられる。
生涯
生母の梁貴人は宮廷内での争いの中で章帝の皇后・竇氏によって殺されていた。
章和2年(88年)2月に9歳で即位。3月には郡と国の変更がなされ、それぞれの諸王が別の封地を与えられた。
和帝が幼少のため即位当初は竇太后が臨朝し、兄である竇憲らと政権を握った。
5月、京師で旱がおきた。長楽少府の桓郁に禁中での侍講が命じられた。冬10月、侍中であった竇憲を車騎将軍に任命し、北匈奴を征伐させた。安息国が使者を送ってきた。
永元元年(89年)夏6月、竇憲は度遼将軍の鄧鴻や南匈奴の単于と協力して北匈奴を稽落山において大いに破り、北匈奴の単于を降伏し人質を得た。9月、竇憲は大将軍に任命され、中郎将の 劉尚が後任の車騎将軍となった。
永元2年(90年)2月、西河と上郡の属国都尉の官が再び設置された。夏5月、諸王の封地が変更となった。また、北匈奴に副校尉の閻磐が追討に赴いた。月氏(クシャーナ朝)が西域長史の班超を攻撃したが、班超はこれを撃退した。秋7月、竇憲は涼州に出兵した。9月、北匈奴が使者を送ってきた。冬10月、行中郎将の班固が南匈奴の単于に命令を報じ、河雲北において北匈奴が大いに破られた。
永元3年(91年)正月に和帝は元服した。2月、竇憲は左校尉の耿夔を遣わし、金微山において北匈奴の単于を包囲し之を大いに破り、単于の母の閼氏を捕虜とした。冬10月、和帝は長安に行幸した。12月、西域都護、騎都尉、戊己校尉の官職を復活させた。
永元4年(92年春正月、北匈奴において政変が起き、新たに立った単于が降伏を申し出てきた。左校尉の耿夔が出向き璽綬を受け取った。3月、司徒の袁安が死去し、太常の丁鴻が司徒となった。夏4月、竇憲が京師に帰還した。
6月、日食と地震の災害が起きた。竇憲は外戚であり、元々権勢家であった上、軍功を立てたことから増長するようになったいた。和帝はこれを憎み、竇憲の一党を排除しようとし、宦官の鄭衆らと策をめぐらした。和帝は詔勅を出して竇憲に謀反の罪があるとし、その与党である射聲校尉の郭璜とその子である侍中の郭舉、衛尉である鄧疊とその弟である步兵校尉の鄧磊を捕らえ、みな獄死させた。さらに謁者僕射を使者におくり大将軍の印綬を没収し、竇憲とその弟の竇篤、竇景を封国に赴かせ、そこで自殺させた。
秋7月、太尉の宋由が竇憲に与したとして自殺させられた。8月、司空の任隗が死去し、大司農の尹睦が太尉・録尚書事となった。冬10月には宗正の劉方が司空となった。12月には武陵と零陵と澧中で蛮族が反乱を起こし、焼当羌が金城に侵攻した。
永元5年(93年2月、太傅の鄧彪が死去した。匈奴の単于が除鞬において叛きいたが、中郎将の任尚が派遣され之を討滅した。冬10月、太尉の尹睦が死去した。11月に、太僕の張酺が太尉となった。この年には武陵郡の蛮族の反乱は郡により鎮圧された。また、護羌校尉の貫友が焼当羌を討ち追い払った。また、南匈奴の単于が反乱を起こした破れて斬られた。
永元6年(94年)春正月、永昌徼外の夷が使者を送り犀牛、大象を献上してきた。司徒の丁鴻が死去した。2月、三河、兗、冀、青州貧民に食糧が貸し与えられた。許陽侯の馬光が自殺した。司空の劉方が司徒に、太常の張奮が司空となった。夏4月、蜀郡徼外の羌が使者を送ってきた。
秋7月、西域都護の班超は焉耆、尉犁を大いに破り、その王を斬り、西域の多くの国を降伏させた。南匈奴の単于が叛いて胡亡出塞。9月、光禄勳の鄧鴻が車騎将軍の代行に任命され、越騎校尉の馮柱、度遼将軍代行の朱徽、使匈奴中郎将の杜崇を送り南匈奴を討たせた。冬11月、護烏桓校尉の任尚が烏桓と鮮卑を率いて逢侯を大いに破り、馮柱は追擊を加えて再びこれを破った。武陵の漊中蛮が反乱を起こし郡により平定された。
永元7年(95年春正月、鄧鴻、朱徽、杜崇らは皆獄に下され死去した。夏4月、日食がおきた。和帝は天災が続くことを憂えて公卿を引見して意見を募った。秋7月には易陽で地裂がおきた。9月、京師で地震があった。
永元8年(96年)春2月己、貴人の陰氏を皇后に立てた。国内の災害はやまず、対策に追われた。南匈奴が反逆した。秋7月、度遼将軍代行の龐と、越騎校尉の馮柱が軍を引き手南匈奴の反乱を鎮めた。車師後王が叛き、車師前王を攻撃した。9月、京師で蝗が発生した。広陽郡が再び設置された。冬10月、北海王の劉威が罪を得て自殺した。12月、南宮宣室殿で火災があった。
永元9年(97年春正月、永昌徼外の蛮夷と撣國が奉貢してきた。3月、隴西で地震があった。西域長史の王林が車師後王を撃ち、之を斬った。6月、蝗と旱があったため、和帝は詔勅を出して被害の救済を行った。秋7月、蝗蟲が京師を飛び過ぎ去った。8月、鮮卑が肥如に侵攻し、遼東太守の祭參が獄に下され死去した。閏8月、皇太后の竇氏が死去し、章徳皇后とされた。焼当羌が隴西に侵略し、長吏を殺害したため、征西将軍代行の劉尚と越騎校尉の趙世らがこれを討ち破った。9月、司徒の劉方が免職となり、自殺した。和帝の生母の梁貴人に皇太后が追尊された。冬10月、恭懐梁皇后を于西陵に改装した。11月、光禄勳である河南の呂蓋が司徒に任命された。12月、司空の張奮が罷免となり、太僕の韓稜が司空となった。若廬獄の官を再び設置した。
永元10年(98年)春3月、和帝は政治についての詔勅を出した。夏5月、京師において大水があった。秋7月、司空の韓稜が死去した。8月、太常の泰山の巢堪が司空となった。9月、廩犧の官を再び設置した。冬10月、五州において雨水があった。12月、焼当羌の豪迷唐らが貢物を送ってきた。
永元11年(99年)春2月、各地の災害対策として各地の郡国に使者を送り、刑罰を緩め、税を免じた。夏4月、大赦を行った。右校尉の官を再び設置した。秋7月、和帝は再び詔勅を出した。
永元12年(100年)春2月、旄牛徼外の白狼、貗薄夷が內屬した。災害対策の詔が再び出た。3月、和帝は再び詔勅を出した。夏4月、日南で象林蛮夷が叛き、郡の兵士が之を討ち破った。閏3月、敦煌、張掖、五原民の貧者に糓を貸し振舞った。秭歸山が崩れた。6月には舞陽で大水があり、被災者への救済がなされた。秋7月、日食が起きた。9月、太尉の張酺が免職となり、大司農の張禹が太尉となった。冬11月、西域の蒙奇、兜勒の二国が使いを送ってきたため、その王に金印紫綬を与えた。この年に、焼当羌が再び叛いた。
永元13年(101年)春正月、和帝は東観に行った。2月、張掖、居延、朔方、日南の貧民や孤児や寡婦、生活困窮者向けの政策が行われた。秋8月,詔を出し、農耕民に穀物を貸し与えた。北宮盛饌門閣で火災があった。護羌校尉の周鮪は焼当羌を撃破した。荊州で雨水があった。9月、詔を出し荊州での被災者向けの政策を表明した。冬11月、安息国が使者を送ってきた。和帝は詔を出し、幽、幷、涼州戶口率が減ったことによる政策の変更を表明した。鮮卑が右北平に侵略し、漁陽まで及んできたため、漁陽太守は之を擊ち破った。司徒の呂蓋が罷免となった。12月、光禄勲の魯恭が司徒となった。巫蛮が叛き、南郡に侵攻した。
永元14年(102年)春2月、繕修故西海郡,徙金城西部都尉以戍之。3月、大赦を行った。夏4月、使者を遣わして荊州兵の督させて巫蛮を撃たせ之を破り降伏させた。張掖、居延、敦煌、五原、漢陽、会稽の流民に穀物を振舞った。5月、象林将兵長史の官職を初めて設置した。6月、皇后の陰氏を廃立した。陰氏の父で特進の陰綱は自殺した。陰氏が巫蠱の術を用いたためという(「皇后紀」)。秋7月、詔を出し、象林県の更賦を復した。この秋に三州で雨水があった。冬10月、詔を出し、兗、豫、荊州の水害対策の命令を出した。貴人の鄧氏を皇后に立てた。司空の巢堪を罷免とした。11月、大司農の徐防が司空になった。この年、郡国上計補郎の官職を初めて復した。
永元15年(103年)春閏月、詔を出し、救貧政策を命じた。2月、詔を出し、潁川、汝南、陳留、江夏、梁国、敦煌の貧民に稟を貸すことにした。夏4月、日食があった。5月、南陽で大風があった。6月、詔令を出した。秋7月、涿郡故安鐵の官職を再び設置した。9月、南に巡狩をし、清河王の劉慶、済北王の劉壽、河間王の劉開を並べて従わせ、官吏にも財貨を振舞った。この秋、四州で雨水があった。冬10月、章陵に行き、雲夢に進み、漢水まで行った。11月、車駕を宮み還し,周囲の者に財貨を振舞った。
永元16年(104年)春正月、詔を出し、貧民に田と種を貸し与えるよう命令を出した。2月、詔を出し、兗、豫、徐、冀の四州が雨で被害を受けたことから、その対策を命令した。夏4月、三府の掾を分けて四州に遣わし、貧民を農耕に従事させるように計らった。秋7月、旱があった。詔を出し、再び貧民対策を命じた。司徒の魯恭が免職となった。光禄勳の張酺が司徒となった。詔令を出し、今年の田租、芻稾を半減させることにした。8月、司徒の張酺が死去した。冬10月、司空の徐防が司徒となり、大鴻臚の陳寵が司空となった。11月、和帝は緱氏に行幸し、百岯山の上り、百官に布を与えた。北匈奴が使者を送り貢納してきた。12月、遼東西部都尉の官職を再び置いた。
元興元年(105年)春正月、禁中において人材を吟味した。高句麗が郡界を侵略した。夏4月、大赦を出し、元興に改元した。宗室で罪絶となった者を悉く属籍に復させた。5月、雍で地裂がった。秋9月、遼東太守の耿夔は貊人を撃ち、之を破った。
冬12月、和帝は於章德前殿において死去した。27歳であった。皇子の劉隆を皇太子として即位させ(殤帝)、鄧氏が皇太后として臨朝した。