賈似道

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賈 似道(か じどう、拼音:Jia Sidao, 1213年8月8日嘉定6年6月28日) - 1275年9月徳佑元年)8月)は、中国南宋末期の軍人、政治家。は師憲。賈渉の嫡子で、母は胡氏。范文虎の岳父にあたる。半閑老人、悦生、秋壑と号する。 

出世

台州(浙江省台州市臨海市)の人。姉が南宋の皇帝・理宗の寵妃で、その間に周漢国公主(周館長公主)を産んだため、その縁から取り立てられることとなる。賈似道は異常なほどの美術や名画収集家であり、その方面に走って遊興に耽ることもあったが、頭脳も切れる人物であったために皇帝に重用され、1246年淳祐6年)に、国境守備隊長に任命されている。

1258年宝祐6年)、かつての名将であった故・孟珙の後任として、両淮宣撫大使に任じられて、軍事権を握り対モンゴル帝国戦に備えた。

1259年開慶元年)には南宋に侵攻してきたクビライの軍勢を鄂州(武昌)で撃破した功績により、宰相にまで出世した。ただし、このとき賈似道が大勝することができたのは、モンゴル側で皇帝のモンケが死去したため退却せざるを得なくなったことによるとも言われている。また、この戦いでは賈似道とクビライとの間に密約があったと後にささやかれることになる。

治世

賈似道は宰相となった上、1264年景定5年)には理宗が崩御して暗愚の皇帝・度宗が即位した。このために南宋の実権は完全に賈似道のものとなり、賈似道は宰相から太師にまでなって独裁政治を始めることとなる。

まず、賈似道は自らの独裁権強化のため、自身に反対する一派を徹底して排除した。さらにモンゴルの侵攻が強まったため、この頃の南宋においては呂文煥ら軍人の勢力が大きくなっていたが、賈似道は自身の独裁権を強化するためにこれら軍人を中央から遠ざけ、モンゴル軍が侵攻してきたときも十分な援軍を送らなかったとも言われる。また、状元科挙の首席及第者)でありかつ強靭な愛国心と精神力を持った文天祥を、自分に迎合しないという理由で要職に就けなかった。

ただし、財政再建のための検地・通貨改革・さらには公田法の採用、また戦利品を自分の物にしたり戦費をごまかしたりする将軍の処罰等による南宋国軍の軍紀引き締め、学生の重用により南宋の文化的発展を図ったことなど、一部においては評価できる政治を行なっていることも確かである。

最期

1273年咸淳9年)、南宋との最前線であった襄陽の守将・呂文煥が襄陽・樊城の戦いで遂に降伏した。これは自身の独裁権強化を図った賈似道が十分な援軍を送らなかったためであるが、このために南宋は一気に苦境に立たされることとなる。賈似道の責任問題も浮上し、1275年(徳佑元年)、賈似道は周囲からその責任を取れと言われんばかりに、娘婿の范文虎夏貴ら諸将を引き連れて元討伐に出陣させられることとなる(丁家洲の戦い)。だが、元軍の前に蕪湖の戦いで大敗してしまい、范文虎と夏貴らは元に降伏してしまった。

この敗戦の咎により、同年9月に賈似道は全ての職を失って失脚となった上、福建に流罪となった。だが、流される途上の福建漳州の木綿庵という場所で、かつて亡父が賈似道によって左遷させられ、恨みを抱く会稽県尉の鄭虎臣という者に殺害された。享年63。

評価

賈似道は16年間にわたり政権を握ったが、専横を極め、自身の独裁のために粛清を行なったことから、宋の四悪人の一人にまで数えられるほど評判が悪い。『宋史』でも「奸臣伝」に入れられている。ただし、進士ではなく姉が皇帝の寵姫であることから出世したことや、国家財政を再建するために豪族たちの権力を抑えようとしたことが恨みを買った面がある。政治的には優れた一面もあったのは確かで、現実的な政治家であった。賈似道がいたからこそ南宋が延命できたともいえる。

賈似道は武官たちから怨まれていたが、クビライが元に降伏した将軍たちに、なぜ容易く降伏したのかを尋ねたことがあった。将軍たちは口々に「賈似道が我々武官を軽んじたからだ」と恨み言を述べた。それを聞いたクビライは「お前たちを軽んじたのは賈似道であって、宋の皇帝ではない。それなのにお前たちは宋の皇帝に忠節を尽くそうとしなかった。賈似道がお前たちを軽んじたのも当然であろう」と応じたと言う。

コオロギ相撲

賈似道は闘蟋コオロギ相撲)のマニアであり、コオロギの飼育方法などをまとめた本を著している。世界初の昆虫飼育の指南書といわれる。

関連項目