法 (仏教)
テンプレート:Sidebar 仏教における法(ほう、テンプレート:翻字併記、ダルマ(ダーマ)、パーリ語:テンプレート:IAST、プラークリット: धम्म、ダンマ)とは、三宝のひとつで、本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」などを示す。仏教ではこの法の概念を重要視し、いろいろな使いかたや意味づけがなされており、この法ということばで、法則・真理を示し、それから教法や説法も指し、存在を意味し、具体的な存在を構成する要素的存在を意味する。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。
ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhR) からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常は「法」と訳されている。
インドにおける「法」
「法」は、仏教の興起以前のインドで、長い間重要な意味を持っていた。
ヴェーダ時代には、「天則」・「理法」の意味をもつ「リタ」(Rita)、「法度」を意味する「ヴラタ」(vrata) と併用されている。この「リタ」や「ヴラタ」は天地運行の支配者であり、四季の循環などをも支配するもので、主に神意を表現する。これに対し「法」は人倫道徳を支配するもので、人間生活を秩序づけると考えられた。そこで「法」が、社会の秩序や家庭の秩序をさし、さらに人間の日課も「法」と言われた。
ウパニシャッド時代に入ると、「法」は最高の真理を意味する。ウパニシャッドではブラーフマン〔=梵〕やアートマン〔=我〕などの形而上学的な概念が重要視されたので、この「法」はそれらより低いものと見られた。
仏教における「法」
仏教の時代に入ると「法」は非常に高い位置をもつようになった。理由は仏教が形而上学的なものをさけ、現実の上にたって一切の真実を明かにしようとする立場にあるからであろう。「法」は全仏教にとって非常に重要な言葉となり、思想となり、実践となった。
仏教において「法」が教えの中心となったのは、釈迦のさとりが「法」の自覚であったことと、その伝道が「法」の伝達であったことに明らかである。「法」をよりどころとし、「法」を規範としての生活こそ仏教者の生活であるという教法は、しばしば経典に見いだされる。
仏教信者にとり法は三宝のひとつとして尊ばれ、法を説いた仏や、法を拠り所として生活する僧とともに重視される。この宝物無くして仏教はありえない。
上記にも述べたように、「法」の概念は仏教では多岐にわたる。ロシアの仏教学者テンプレート:仮リンク(Щербатской, Фёдор Ипполитович テンプレート:Lang-en-short)は、「法」の語をほぼ二義にまとめている[1]。
- 「真理」の意味を中心とする一群。仏教の「教義」「教法」「法則」などの意味がある。
- 「存在」の意味を中心とする一群。「存在するもの」という意味であり、存在の「性質」「徳性」、さらには「具体的な存在」を構成している実体的要素なども含めて考えられる。
真理を意味する「法」
「真理」をあらわす「法」とは、テンプレート:要出典範囲ように、仏のさとった法を指す。その意味で仏法であり、それが教説として説かれたという意味で教法である。
釈迦のさとった法は、釈迦のドグマではない。テンプレート:要出典範囲、「世間の実相」「世界の真理」であるというのが釈迦がみずからの所信であり、仏教の主張である。この「法」(=真理) とは、縁起の理である。
この真理としての「法」を、具体的な釈迦の教えでいうと、諸行無常・諸法無我・涅槃寂静の三法印といわれる法であり、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の十二縁起の法である。このような「法」は中道をいい、仏陀の説かれた苦・集・滅・道の四諦の法でもある。特に、釈尊の悟った真理の中の真理とも言えるものを、邪法ではないと言う意味で正法(妙法)と言う。
存在を意味する「法」
存在としての「法」とは、具体的に「存在している個々のもの」を法という。この場合も、単にそこに現象として存在しているものではなく、「真理のままに」そこに現象として存在しているという意味を考えるべきである。
勝義諦(しょうぎたい)とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。これらは真理からみられた世間の真相、世俗の立場からみた世間の姿であり、存在をどのように認識するかによる。
この「存在現象」としての「法」について、古くは「能持自相軌生物解」と規定している。これを広義に解釈すると、存在がそれぞれ「存在自身の特相」をもっていて、その特相が軌範となってその存在が何であるかを人々に認識させる。これを「法」というから、我々の認識の対象となるのが「法」である。
テンプレート:要出典範囲、五蘊の法といわれるものを「法」という。これは無常変転して、常住ではない現象存在である無常法そのものではなく、存在を存在あらしめている「色・受・想・行・識」の構成要素として、特性と特相をもっているものをいう。
またテンプレート:要出典範囲「十二処」とは、認識の根本となる眼耳鼻舌身意などの感覚器官と、色声香味触法の認識の対境となるものを指す。「いっさいとは十二処である」というのは、認識における「認識するもの」と「認識されるもの」のいっさいをいう。
このように「法」が存在を意味する場面がある。しかし、ただ現象的に存在しているということではなく、我々が認識したものとしての存在現象と考えられる。
後には、形而上的な思惟によって「法」を有為法と無為法とに分けて考えられる。「有為法」は無常変転する存在として、それを色法、心法、不相応法などと説き、「無為法」として常住不変の法を説く。部派仏教の説一切有部や、大乗仏教の瑜伽唯識学派などは、この存在としての法を、五位七十五法とか五位百法とくわしく議論した。
脚注
- ↑ Щербатской, Фёдор Ипполитович Центральная концепция буддизма и значение термина дхарма // Щербатской Ф. И. Избранные труды по буддизму. — М.: Наука, 1988. С. 169—170