源雅実
テンプレート:基礎情報 公家 源 雅実(みなもと の まさざね)は、平安時代後期の公卿。源顕房の長男。久我家の祖。源氏初の太政大臣まで昇進したほか、舞楽や文学に長じた文化人としても名を残す。『久我相国記』を著す。
生涯
治暦2年(1066年)に童殿上(貴族の子弟が殿上で見習いの奉仕をすること)を許される。翌年の治暦3年10月に後冷泉天皇の御前で『胡飲酒』を舞い、御衣を賜ったことは後年長く語り伝えられた。治暦4年(1068年)に従五位下に叙され、侍従・右近権少将・右近権中将などを経て、承保2年(1075年)に白河天皇の蔵人頭に補任される。承暦元年(1077年)従三位に昇進し、さらに同年12月3日に参議に任ぜられる。その後、権中納言・権大納言を経て、康和2年(1100年)内大臣に任ぜられる。永久3年(1115年)右大臣になり、保安3年(1122年)に太政大臣に昇った。これは源氏の太政大臣補任の初例である。しかし天治元年(1124年)病になったため、同年7月7日出家して法名を蓮覚とした。大治2年2月15日、69歳で薨去。同年2月17日、遺体は久我(山城国愛宕郡)の山荘に移され、2月23日に久我の西辺に葬られた。
白河天皇が寵愛した中宮藤原賢子の同母弟・堀河天皇の外叔父として朝廷で重きをなし、当時治天の君として朝廷の権力を掌握していた白河院や、関白藤原忠実にもはばかることがなかったという(『今鏡』)。雅実が薨去した際、同時代の人は「現世の昇進すでに万人を超え、入滅の時釈尊と同日なり、誠に是れ現当二世相叶ふ人か」(『中右記』)などと評していることからも、当時の雅実の名声の高さが伺える。
舞楽に優れ、秘曲『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が変死したとき、堀河天皇が『胡飲酒』を伝受していた雅実に命じて、資忠の子の忠方に伝えさせた逸話は各種の説話集[1]や楽書[2]に記されている。
系譜
官歴
- 治暦4年(1068年) 従五位下
- 治暦5年(1069年) 侍従
- 延久元年(1069年) 元服
- 延久4年(1072年) 右少将
- 延久5年(1073年) 従五位上 のち正五位下
- 延久6年(1074年) 従四位下 中宮権亮
- 延久6年(1074年) 従四位上 近江権守
- 延久6年(1074年) 正四位上 右中将
- 承保2年(1075年) 左中将、蔵人頭
- 承保4年(1077年) 従三位
- 承暦元年(1077年) 参議
- 承暦2年(1078年) 備前権守
- 承暦3年(1079年) 正三位 のち従二位
- 永保2年(1083年) 権中納言 侍従
- 応徳2年(1085年) 正二位
- 応徳3年(1086年) 権大納言
- 寛治2年(1088年) 侍従を辞す
- 寛治5年(1091年) 中宮大夫
- 寛治7年(1093年) 中宮大夫を辞す
- 寛治7年(1093年) 右大将
- 康和2年(1100年) 内大臣
- 康和5年(1102年) 左大将
- 嘉承元年(1106年) 皇太子傅
- 嘉承2年(1107年) 皇太子傅を辞す
- 永久元年(1113年) 従一位
- 永久3年(1115年) 右大臣
- 元永2年(1119年) 左大将を辞す
- 保安3年(1122年) 太政大臣
- 天治元年(1124年) 66歳で出家し、蓮覚の法名
- 大治2年(1127年) 69歳で薨去。