庵原氏

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庵原氏(いはらし)は、駿河国の有力な豪族の1つである。出身に諸説あり、別の氏族とされるが不明。

庵原国造を祖とする庵原氏(吉備氏族)

庵原氏は廬原国造の家系である。日本書紀の伝えるところによると景行天皇の時代、日本武尊東征の際の副将、吉備建彦が蝦夷征伐の功によりこの地(駿河国)に封ぜられる。廬原国造の祖、意加部彦は吉備建彦の子、建彦は日本武尊の外舅なり、とある。以後永くこの地を治め、倭国の将としても度々歴史上に登場する。

663年中大兄皇子の外征「白村江の戦い」では、この一族の廬原君臣が一軍の将として戦った。天智紀二年條に「大日本の救将廬原君臣が健児万余を率い、正に海を越えて至る」との記述があり、常時かなりの勢力を誇っていた。後に菴原の字を用い、後世は多く庵原の字を用いた。室町時代になると今川氏傘下に入るものの、地方豪族としての勢力は衰えなかった。「今川仮名目録」には明応の頃、庵原周防守という人物が親族間の借金問題で今川氏親に仲裁を求め、今川は貸主の庵原左衛門に周防守の料所のうち焼津郷を引き渡して分家させこれを収めたという記述があり、駿河に複数の庵原家があって一族がこの地で栄えていたことが伺える。

1560年桶狭間の戦いで今川勢とともに一族多数を失った後、戦国大名としての今川氏が滅ぶと一族も離散する。最後まで今川に殉じた者、甲斐武田へ仕官した者、徳川に仕官して幕臣となった者など、系譜は多岐にわたる。地元駿河が後に徳川幕府の御領となってからも庵原家は地頭として焼津郷に存続し、明治を経て昭和までこの地に系譜が残っていた。

寛永諸家系図伝や江戸時代の幕臣録などでは庵原家系の本姓を越智氏と記しているものが多いが、これは古事記にある系譜に基づいたためと考えられる。また、意加都彦命の父を日子刺肩別命とし、孝霊天皇の裔であるとする説もあるが、この説をとった場合、日本武尊の東征との整合性がなくなり、意加都彦命(この説によると天皇の孫)が何故当時は辺境であったであろうこの地で庵原国の祖となったのか説明できなくなってしまう。さらに日本武尊と駿河地方に伝わるその伝承とも矛盾する。孝霊天皇皇子については稚武彦彦狭島を混同している例もあり、孝霊天皇裔説は信用できないとする記述が後年の姓氏録などの資料にある。「国造本記」には「廬原国、吉備建彦命の児、伊加部彦命を以って国造と定め賜う」と記述があり、駿河庵原氏に関しては吉備氏族とするほうが自然である。

藤原秀郷流・庵原氏

藤原秀郷の子孫・蒲生惟俊近江蒲生氏の祖)の子・庵原俊忠が駿河国庵原に住み、庵原氏を称したという。後に重臣として今川氏に仕え、庵原城主。今川義元に仕えた名軍師の太原雪斎を輩出し、また最後まで忠誠を尽くした今川家の重臣・庵原将監もこの家の出身である。武田信玄の駿河進攻に際しては一族で抵抗したが敗退している。今川氏滅亡に前後して一族は離散し武田家などに仕えた。武田氏に仕えた庵原朝昌は、後に井伊直政に仕えて大坂の役で活躍。以後彦根藩家老となり、幕末には庵原朝儀の名がみえる。


坂上田村麻呂流・庵原氏

坂上田村麻呂の末裔・土師維正の子・正雄が庵原三郎を称したという。治承・寿永の乱では庵原朝綱が出ており、源頼朝御家人となっている。しかし中先代の乱において北条時行に加担し、今川範国に討伐されたため、家は途絶えたという。「朝」の通字や、左衛門尉の仮名から、名跡は藤原秀郷流の庵原氏が継いだと思われる。


藤原南家流・庵原氏

藤原南家の後裔と伝わる。やはり駿河国に住し今川氏に仕えたが、庵原元親は主家衰亡後に北上して片倉景綱伊達政宗に仕えたという。