江戸重通
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江戸重通
江戸 重通(えど しげみち、弘治2年(1556年)- 慶長3年10月1日(1598年10月30日))は戦国時代・安土桃山時代の武将。常陸の国人。家系は鎮守府将軍藤原秀郷の血を引く川野辺氏の支流 那珂氏の分家にあたる。水戸城城主。江戸通政の嫡男。但馬守。幼名は宮房丸。正室は結城晴朝の妹。子に江戸通升・宣通がいる。
生涯
1570年、元服する。1567年に父・通政がすでに病死していたために家督を相続していた。この頃になると北条氏政の関東における勢力拡大が常陸にまで及び、重通は佐竹義重に半従属の形で従って北条軍の侵攻に対抗していた。1575年、江戸氏が保護していた真言宗の僧侶に絹衣の着用を許可した。これは当時朝廷が定めた僧侶の服装規定に反する(絹衣は天台宗のみに認められていた)ものであったため、時の正親町天皇と実力者織田信長が揃って問責の使者を出した。ところが、重通はこれを逆手に取って朝廷と信長に自分を売り込み、翌年8月4日には従五位下但馬守に任官される事になった(絹衣相論)。
しかし、北条軍の攻勢は激しく、1578年に重通は北条氏と降伏に近い形で和睦した。ところが、ここでも重通は抜け目無く佐竹氏・北条氏両方に自分を売り込んで大掾・鹿島両氏の討伐の許しを得る。1587年に鹿島郡を制圧し、翌年には大掾清幹を降伏させた。
だが、こうした急激な拡大路線によって負担を強いられた神生氏など家臣団が離反し始めて家中は分裂、江戸氏は急速に衰退していく。そして1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかったため、秀吉は佐竹義宣に常陸54万石の支配を認め、同年10月20日重通は居城の水戸城から追放された。その後、結城晴朝のもとへ落ち延びたという。