孫登
テンプレート:出典の明記 孫 登(そん とう、209年 - 241年)は、中国三国時代の呉の皇太子。字は子高。父は孫権。子は孫璠・孫英・孫希。妻は周瑜の娘。
経歴
幼少の頃から聡明であった。長男として生まれたが、生母の身分が低かったため、孫権の妻の一人である徐夫人に育てられた。当初は後継者の地位も危ぶまれていたが、孫登自身が聡明で人望もあったため、後に皇太子となった。
221年、孫権が呉王になると東中郎将の官位を与えられ、万戸侯に封じられた。しかし、病気を理由として辞退した。同年のうちに太子となった。優れた若者が周囲に集められ、諸葛恪・張休・顧譚・陳表が孫登の側近となり、友人として一緒に学問・乗馬・射撃に励んだ。
孫権は『漢書』を学ばせるため、張昭に講師をさせようとしたが、そこまで張昭の手を煩わせるまでもないと判断し、代わって張休に講義させた。
孫登は周囲の友人達に対し、君臣の礼を超えた付き合いをしたといわれ、車に同乗したり、寝食をともにしたりもした。張温の薦めにより中庶子の官が設置され、陳表達がそれに就任した。孫登は中庶子達が君臣の礼に捉われ過ぎているとして、頭巾をとるよう命じたりした。
225年、孫権は孫登の妻に功臣周瑜の娘を迎えた。程秉が孫登の妻の出迎え任務を果たし、孫登に夫婦の道を教訓すると、孫登もこれによく答えた。
229年、孫権が即位すると皇太子になった。諸葛恪ら4人はそれぞれ左輔・右弼・輔正・翼正都尉となり、太子四友と呼ばれた。謝景・范慎・刁玄・羊衜も同時期に賓客として招かれたため、東宮は活気づいた。
孫権は武昌から建業に再び遷都したが、孫登を武昌に残し陸遜に補佐させた。一時、弟の孫慮が孫権に寵愛され、開府まで許されていたことがあったが、その孫慮が232年に若死すると、孫権は悲しみのあまり食事を摂らなくなった。孫登は建業へ急遽駆け付けて孫権を見舞い、涙を流しつつ誠心誠意で励ました。その後、孫登が武昌に帰還しようとしたが、孫権は建業に引き留めた。
234年、孫権が合肥に遠征すると留守を任され、優れた統治手腕を発揮した。また当時、孫権の正妻格であった歩夫人への礼儀を欠かさなかったが、あくまで孫権に疎まれていた育ての母、徐夫人を敬愛した。
241年、病のため33歳の若さで死去した。死ぬ直前、孫登は孫権が弟の孫和を愛していることを知り、自身も孫和を愛していたため、自分の死後、孫和を皇太子として取り立てるよう遺書を残した。宣太子と諡された。孫権は孫登の死を聞き悲しんでいたが、死後に遺書が届けられたため、ますます悲しみを募らせた。
孫登の若死は、呉の内紛(二宮事件)を招く大きな一因となってしまった。
子のうち、孫璠と孫希は若くして死去した。次子の孫英が呉侯に封じられたが、254年に孫峻が殺害した。
陳寿は、孫登を「しっかりとした目標を持ち、豊かな徳の持ち主であった」と評している。
小説『三国志演義』では、徐夫人の実子という設定になっている。