川上久朗
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川上 久朗(かわかみ ひさあき、天文5年(1536年) - 永禄11年2月3日(1568年3月1日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。川上忠克の二男。子は川上久辰。通称は源三郎。官位は左近将監。
久朗は島津氏の庶流の一族であることに加え、若い頃から智勇兼備の誉れが高く、その才能は島津忠良や島津義久にも高く評価され、18歳にして当主の義久から島津氏の家老職、並びに守護代にまで任命されるという異例の抜擢を受けている。天文22年(1553年)に義久の命で老中となり没年までその地位にあった。
先陣での功績も多く、弘治元年(1555年)の蒲生氏攻略、永禄4年(1561年)の肝付兼続との廻城合戦等、各地で奮戦している。その才能を遺憾なく発揮して武功を挙げたが、永禄11年(1568年)1月20日、相良氏との戦いで赤池長任の守る大口城攻めのとき、島津義弘を守るために孤軍奮闘して深手を負い、鹿児島に帰還したが翌月3日に死去した。法名は随岳良順居士。墓は福昌寺に建てられた。
久朗は若くから才幹を見込まれ、忠良もその名を看経所に記して将来を頼むほどであった。