沼田景義
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沼田 景義(ぬまた かげよし、天文21年(1552年) - 天正9年(1581年))は、戦国時代の武将。沼田氏当主沼田顕泰の庶子。摩利支天の再来といわれた勇将。平八郎。
父の顕泰に寵愛され、隠居の地である天神城に同行した。1569年、顕泰による異母兄沼田朝憲の殺害に端を発する沼田氏の内紛に敗れ、父・顕泰とともに家臣に追放されたと伝わる(「加沢記」)。
しかし、考証によって沼田氏の内紛は1561年以前のことで、沼田へ進出してきた後北条氏への対応を巡り、旧主・上杉憲政を支持する顕泰と、北条氏へ帰属しようとする朝憲らの対立だったとされている。この内紛には朝憲夫人の実家で北条方となった厩橋城主長野氏が介入し、顕泰は越後へ逃亡したとみられ、沼田氏の名跡は北条方の沼田康元が継いだ。1561年、長尾景虎が憲政を奉じて沼田城へ進攻してくると康元は破れ、顕泰は上杉方で沼田衆をまとめる立場に復権したが、沼田城は上杉の城代支配となり、以後の顕泰の動向は不明である。この間、平八郎景義は父・顕泰と同じく越後へ逃亡のち沼田へ復権したとみられるが、彼の名は「加沢記」などの後世史料以外にみられず、その生涯ははっきりしない(黒田、1997年)。
景義の行動で明確なのは、由良氏方の上野国女淵城主でみえることである。1578年に上杉謙信が死んで上杉氏が混乱すると、由良国繁の援助を受け旧領への復帰をめざして沼田へ兵を進めている。なお景義が由良方に入った時期は不詳。しかし景義の動きは失敗した。景義と同じく沼田の地を狙う真田昌幸が沼田氏旧臣・金子泰清(景義の母方の伯父(又は祖父)とされる)に景義暗殺を唆しており、景義は金子らに迎えられ沼田城に入ったが、城内で殺害されてしまったのである。これにより沼田氏は断絶した。
参考文献
- 『沼田町史』
- 『沼田市史』
- 黒田基樹 『戦国大名と外様国衆』文献出版、1997年。