北畠昌教
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テンプレート:出典の明記 北畠 昌教(きたばたけ まさのり、天正5年(1577年)? - 元和2年2月17日(1616年4月3日)?)は安土桃山時代から江戸時代初期の頃に活動したと目される人物。北畠家の一族というが、その実像や出自はよく分かっていない。
伝承
伊勢の国司北畠家の一族。北畠具教の孫で北畠具房の子(または具教の子)とする伝承が存在し、それによるとその生涯は以下の通りである。
幼名を千代松丸という。祖父具教ら一族が誅殺され、父・具房が滝川一益に預けられて幽閉されたとき、家臣に連れられて脱出し、織田信長の追及から逃れたという。その後、本願寺を頼り、その降伏後は津軽に赴いて津軽為信の客分となったという。
しかしながら、現在これらの諸伝は、北畠昌教の子孫と主張する、一部個人の主張の域を出ておらず、事実か否か極めて疑わしいものと言える。
また、鹿角に残る伝承によれば、専正寺は北畠旧臣の井上専正が本願寺の弟子となり、開いた寺である。専正は都に隠れ住んでいた昌教を保護した。昌教は折戸と改姓し、死に臨んで代々折戸姓を名乗ること、他家に仕えないことを遺言して亡くなったという[1]。なお、専正寺は盛岡藩(南部氏)領にあった。