衆道
衆道(しゅどう、英: Shudō)とは日本における男性の同性愛関係(男色)の中で、武士同士のものをいう。「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。
ここでは江戸時代頃からいわれるようになった武家社会における衆道について記す。そのほかの男色全般については、「日本における同性愛」参照。
概要
平安時代に僧侶や公家の間で流行した男色が、中世室町時代に武士の間でも盛んになり[1]、その「主従関係」の価値観と融合したとされる。衆道の言葉がいつから使われるようになったかは不明だが、承応二年(1653年)の江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(遊女并隠賣女)」に確認できる[2]。現在確認されているものでは、幕府の公式令條で衆道が使われたのはこれが最初とみられ、江戸時代から武士の男色が衆道と呼ばれるようになったと考えられている。
1716年頃に書かれた『葉隠』には、武士道における男色の心得が説かれ、「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」としている。そして、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべきだと説き、怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、「切り捨つべし」と言い切っている。また『葉隠』では武士における衆道は、命がけのものが最高のこととされた。
武士の男色(江戸時代より前)
武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異なり、女人禁制の戦場で武将に仕える美少年を「お小姓」として連れて行ったことなどが始まりだとされる。時に女性の代わりに男色の相手をすることもあった。
岩田準一の『本朝男色考 男色文献書志』によると、武家社会の男色は、戦国時代より前から存在しており、貴族政治から武家社会に転じる鎌倉時代にその習俗はあったという。そして「最初には、僧侶特有の風俗らしく思われていたものが、ついには武士によってほとんど奪われてしまったごとき奇観を呈する」と述べている。
白倉敬彦の『江戸の男色』によれば、将軍の小姓制度が確立したのは室町幕府の頃である。能楽の創始者となった世阿弥なども足利義満の寵童の一人であり、将軍に寵愛され庇護も受けるなど、男色は一つの手段でもあった。
氏家幹人は『武士道とエロス』で「戦術としての男色」を挙げている。『新編会津風土記』巻七十四が伝える「土人ノ口碑」で、文明11年(1479年)に蘆名氏が男色の契りを戦略的に利用して敵方の情報を入手し、高田城に攻撃を仕掛けたという。このように武家社会の男色は「出世の手段」や「戦術」、或いは軍団の団結強化の役割もあった[2]。
江戸時代 衆道の確立、そして衰退へ
ところが江戸の天下太平の世になると、このような男色の特色は機能しなくなっていった。戦国時代末期(安土桃山時代)から江戸中期までを扱った『葉隠』(1716年)によると、江戸の時代の武家社会でも男色は盛んだったが、これまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色も見られるようになっていった。従前の君臣的上下関係はないが、念者(年長者)と若衆(年少者)という兄弟分の区別があり、若衆の多くは美貌を持つ少年だった[2]。また前節で触れたように武士の男色が「衆道」といわれるようになったのも江戸期からだとされる。
ただ江戸初期でも、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる動きも現れた。特に姫路藩主池田光政(1609年-1682年)は家中での衆道を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している[3]。江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも男色相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃傷事件などのトラブルが頻発したため、風紀を乱すものとして問題視されるようになり、元禄も終わり江戸時代後半になると衆道は余り目立たなくなった[1]。安永4年(1775年)には、米沢藩の上杉治憲は男色を衆道と称し厳重な取り締まりを命じている。
それでも武士道の精神と深く関わる男同士の情愛は様々な形で続き、薩摩藩の衆道は幕末維新まで続いた[1]。新撰組局長、近藤勇の中島次郎兵衛に宛てた書簡にも、局内で「しきりに男色が流行している」と記されている[4]。テンプレート:要出典範囲。
用語
- 念此(ねんごろ) - 男色の契りを結ぶ。
- 念者(ねんじゃ) - 衆道関係における年長者。兄分。
- 若衆(わかしゅ/わかしゅう) - 衆道における年少者。
脚註
参考文献
関連項目
外部リンク
- 外国人に教えられる日本(インターネット新聞 JanJan、Internet Archive)