相馬忠胤
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相馬 忠胤(そうま ただたね、寛永14年(1637年) - 延宝元年11月2日(1673年12月9日))は、江戸時代前期の大名。相馬氏第19代当主、陸奥相馬中村藩第3代藩主。土屋利直の次男。相馬義胤の養嗣子。子には貞胤(長男)、昌胤(次男)、娘(佐竹義長室、後に離婚)、娘(北条氏朝継室)などがいる。
慶安4年(1651年)3月3日、義胤が病没した。承応元年(1652年)2月8日、義胤には嗣子が無かったため、土屋利直の次男を娘の亀姫と娶わせることで、家督を相続させた。これは老中・松平信綱にも認められて、ここに相馬忠胤が誕生したのである。同年12月28日、従五位下長門守に叙任。
忠胤は内政手腕に優れ、明暦2年(1656年)には領内で検地を行ない、年貢減免や倹約、そして100石につき1両の積立金制度を実施している。寛文8年(1668年)には新田開発を行なった。幕府とも密接な関係を持って、名君と言われたが、延宝元年(1673年)10月、相馬中村城において病に倒れ、11月2日に亡くなった。