關淳一
テンプレート:政治家 關 淳一(せき じゅんいち、關の字は新字体で「関 淳一」とも表記される、1935年8月13日 - )は第17代大阪市長。医学博士。大阪府大阪市出身。祖父は社会政策学者で第7代大阪市長の關一。
経歴
- 1935年 大阪市に生まれる。
- 1961年 大阪市立大学医学部卒業。同大助手、講師を歴任。
- 1987年 大阪市立桃山市民病院副院長兼第一内科長に就任。
- 1992年 大阪市環境保健局長に就任。
- 1995年 大阪市助役に就任。
- 1999年 大阪市助役に再任。
- 2003年 第17代大阪市長に就任。
- 2005年 10月に一旦辞任し、11月の出直し市長選で再選される。
- 2007年 3選を目指した選挙で落選し、大阪市長退任(12月18日付)。
- 2010年 社団法人日本WHO協会理事長就任。
概要
2期8年にわたって市長をつとめた磯村隆文のもとで助役を務め、磯村の後継候補として2003年の市長選挙に日本共産党を除く主要政党の推薦を得て出馬、元大阪城天守閣館長の渡辺武(日本共産党推薦)らを破り当選した。就任当初、助役に弁護士の大平光代を起用し、異例の市役所外部からの人事として話題となった。
2004年以降、報道された大阪市職員厚遇問題に端を発する、市役所の体質への強い批判を受けて(詳細は大阪市問題を参照)、上山信一ら外部有識者の助言を得て市政改革に取り組んだ。市の同和行政の不祥事に際しては、自身の環境保健局長と助役時代に芦原病院への無担保融資として46億円を決裁していたことが問題視された。2005年10月には、市政改革への信を問うために任期途中で突如辞任し、出直し選挙戦に自民党・公明党の推薦を得て出馬。前衆議院議員(民主党)の辻恵や前大阪市会議員の姫野浄(日本共産党推薦)らを破り再選された。なお、助役の一人として市政改革を推進していた大平は、この選挙前に辞任している。
任期中に取り組んだ主な施策は以下のとおりである。
- 市政改革本部を中心に、外部有識者の協力のもと行財政改革を推進
- 都市経営の指針として、アーツとビジネスの融合した創造性豊かな都市をめざす「創造都市戦略」を掲げる
- 創業支援体制の整備
- 市立博物館施設の有効活用
- 大学・研究機関の誘致・提携
- 慶應義塾大学・同済大学(中国)・カーネギーメロン大学(米)の大阪拠点誘致
- 大阪大学・大学コンソーシアム大阪・大阪樟蔭女子大学との連携協定締結
- 大阪市立大学との「新時代パートナーシップ協議会」設置
2007年11月4日告示、18日に投開票が行われた大阪市長選挙に、3選を目指して出馬表明し、自民党・公明党へ推薦を要請した。しかし、市営地下鉄の民営化方針をはじめとする關の市政改革の方向性に反発した両党の一部市議や市OBが、橋爪紳也[1]の支援へ傾いたため[2]、推薦の決定をめぐる議論が難航し、民主党が平松邦夫を擁立した後までずれ込んだ。
選挙戦では、これまでの市政改革の実績とその継続、都市ビジョンとして「創造都市」の実現や市営地下鉄の民営化などを訴えたが、民主党・国民新党が推薦する平松に敗れた。
その他
- 従来、釜ヶ崎などの日雇い労働者やホームレスなどは、釜ヶ崎解放会館などに便宜上の住所登録を行うことが黙認されていた(市当局は認知していなかったとされる)。しかし、2006年12月にこのことが表面化すると、2007年3月29日、彼らの住民票を抹消、公民権を剥奪した。統一地方選挙による、大阪市議選告示前日のことであった。その後、これまで登録を黙認していた職員を処分した。
関連項目
脚注・出典
テンプレート:大阪市長- ↑ 大阪市立大学教授(2007年9月辞職)。關のアドバイザリーボード「元気で美しい大阪づくり有識者会議」のメンバーを務めるなど、これまでも大阪市政とのかかわりが深かった。のちに政党推薦のないまま市長選に立候補するが、落選。詳しくは当該項目を参照。
- ↑ 【混沌】(上) 「身の丈」か「大大阪」か 迫る大阪市長選 MSN産経ニュース 2007年10月10日