結城義顕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
結城 義顕(ゆうき よしあき、永禄10年(1567年) - 慶長18年(1613年))は戦国時代から江戸時代初期にかけての武将で、白河結城氏12代当主。結城晴綱の嫡男。結城朝綱の父。治部大輔。幼名は七若丸。秋田小峰家系図(白河集古苑所蔵)では朝顕とされる。
生涯
父・晴綱が病死したとき、7歳という幼少の身であったため、一族の小峰義親から後見を受けた。しかし、1575年に鷹狩の行事のため白河城を留守にした際、義親や重臣たちによって城を乗っ取られて義顕は追放された。義顕は家老の郷石見守・郷土佐守らにかくまわれて会津に逃れ、1582年に蘆名盛隆の斡旋で白河領に帰参した。義親から所領の一部を返還され、小田川の岩窪切岸城を居城としたが、再び白河結城氏の当主となることはなかった。
当主の座を奪還すべく密かに義親打倒の計略を企て、家臣の間で連判状も廻されたが、1590年の豊臣秀吉の奥州仕置により義親と共に所領を没収されたため果たせなかった。その後、義顕は太田川(泉崎村)で子や旧臣たちとともに農業をして暮らしたという。
1613年に47歳で没した。