増岡浩
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テンプレート:混同 増岡 浩(ますおか ひろし、1960年3月13日 - )はダカール・ラリー(通称:パリダカ)で活躍するラリードライバー。日本を代表するダカール・ラリーのドライバーの一人である。
略歴
埼玉県入間市出身・在住。埼玉県立狭山工業高等学校を卒業。1982年に株式会社ラリーアートに入社。
1979年からオフロードレースに出場し、1987年からダカール・ラリーに参戦している。また、2002年と2003年のパリダカでは篠塚建次郎以来日本人2人目の総合優勝を果たした。
パリダカに参戦するために体力を鍛えているため、体力の数値は同世代の平均を上回っている。視力は裸眼で1.5を記録し、動体視力も優れているという。
2009年をもって、三菱自動車工業がパリ・ダカールラリーからワークス・チームの撤退を発表したことに伴い、三菱とプロ契約を結んでいた増岡の去就が注目されていたが、結局2010年4月1日付で同社商品戦略本部上級エキスパートとして採用され、三菱自動車の社員となった[1]。現在は同社のi-MiEVを用いたエコラン等のプロモーションを行う「燃費マスター」として活動している[2]。2013年12月の異動で広報部と開発本部技術企画部の兼任となった[3]。
2012年には3年ぶりにレースに復帰、i-MiEV Evolutionでパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムに参戦する[4]。
過去のパリダカにおける成績
年 | 内容・結果 |
1987年 | パリダカに初参戦・29位 |
1994年 | パジェロ(エンジンは4G63)で参戦・総合4位、市販車改造クラス優勝 |
1996年 | RVR(プロトタイプ)で参戦・総合6位 |
1997年、1998年 | チャレンジャーで参戦・2年連続総合4位 |
2001年 | パジェロエボリューションで参戦(しかし、9日間総合1位を死守するも、ジャン=ルイ・シュレッサーらライバルチームのアンフェアな行為と主催者の走行時間の計時ミスにより惜しくも総合2位となる) |
2002年 | パジェロエボリューションで参戦・総合優勝(自身にとっては念願の初優勝、三菱は総合優勝2連覇を獲得) |
2003年 | パジェロエボリューションで参戦・2年連続総合優勝(三菱は総合優勝3連覇を獲得) |
2004年 | パジェロエボリューションで参戦、第8ステージで発生した車の故障などのタイムロスでステファン・ペテランセルに49分24秒差で敗れ、総合2位になった。(三菱は総合優勝4連覇を獲得)
また、第7ステージスタート前には銀行強盗に銃口を突きつけられ、命にかかわるトラブルに巻き込まれた。 |
2005年 | パジェロエボリューションで参戦、1月10日の第10ステージで発生したエンジントラブルでリタイアとなった。 |
2006年 | パジェロエボリューションで参戦、1月3日の第3ステージで着地時の際、車体が一部損傷。短時間での修復が難しかったため、やむざるを得ずリタイアを選択することとなった。 |
2007年 | パジェロエボリューションで参戦。完走したものの、チームのサポートに回り、5位に終わった。 |
2008年 | パジェロエボリューションで参戦予定だったが、モーリタニアの治安悪化のため大会が中止となった。 |
2009年 | レーシングランサーにて参戦。ボルト破損という不運なトラブルにより無念の初日リタイアとなった。 |
ドライバーとしての他の活動
- 三菱自動車工業「アウトランダー」 - スペシャルサイト上で公開されているテストドライブの映像にテストドライバーとして出演してるだけでなく、CMでも江口洋介、武豊に続いて出演。
- なお、2003年から2006年にかけて販売された、3代目パジェロ(ロング)の特別仕様車「アクティブフィールドエディション」の歴代モデルは本人が開発に参加し、駆動系を中心にチューニングを行った。
CM
- 三菱自動車工業 アウトランダー 『増岡浩 出会い篇』 2006年1月5日から放映開始